古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

宗教の問題

成人式。

神大の某教授がブログで自粛を呼びかけていた。この呼びかけの背後にどれだけの葛藤があったのか分からない。Twitterには多くのリプライがついて、多くの人の議論の場になっている。率直に言って居心地が悪い。いろんな人間がいる。それは平面に並置されるような多様性ではない。人間的な成熟の多様さが、表面的にではあるが表出している。そもそも、成熟した人間は不躾に見ず知らずの他人のツイートに我が物顔で乗り込んだりはしないとは思うが。

 

今年の新成人は、自分にとって最初の教え子の世代になる。成人式というのは、基本的に自分のものでしかないと思うのだが、こういう仕事をしていると「あっ、あの世代かあ」と思い出す節目になる。自分とは異なる世代に触れられるのは、有り難いことと言ってもいいのかもしれない。自分の成人式は出るどころか地元にも帰らず深夜までバイトしていたのに、人の成人式はなんとも悦ばしい。

 

「コロナ禍」という表現は定着しつつある。「コロナが悪い」「コロナのせいで」という表現もよく耳にする。その通りだ。「コロナが悪い」。ただそこに自分は同時に、以前にも書いたような素朴な違和感を感じないわけでもない。そのときにはこのように書いた。

「ウイルスが原因だ」「若者が原因だ」のような仕方で主語として立てられた事物は、我々の思考判断として定立されたにもかかわらず、しばしば我々の以降の思考に影響を及ぼし、蝕み、飲み込んでいく。我々は主語的なものに自己を喰われていく。自分はそれこそが、我々の多くの「迷い」や「苦悩」の根源であるように捉えている。「うつ病」で苦しむ人々にとって本当に必要なのは、科学主義的なスケープゴートではないはずだ。むしろそうした「迷い」や「苦悩」を共に直視すること、その現場から思考を始めなければならないのではないか。

 

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私は別にこの現状の原因が「コロナ」にあるのではなく、我々一人一人の心の弱さにあるのだ、というような馬鹿げた教説を披歴しているわけではない。 明らかに我々はコロナウイルスに翻弄されて日々の生活を余儀なくされているし、この現状の原因がコロナにあることは誰の目にも明らかである。だから「コロナが悪い」と言っても構わない。

しかし我々は窮している。我々がたとえどれだけ「コロナが悪い」と言ったところで、当のコロナが「すみませんでした、人間さんたち。ぼくらは悪いことをしたのでさっさと消えます」となるわけではない。我々はやり場のない感情を抱えていることになる。その感情のどうしようもない発露の一つが、口をついて出る「コロナが悪い」であると言うこともできるだろう。

國分功一郎が「意志」と「責任」の概念的脆弱性を指摘しながら、それでも我々は逼迫した状況にあってはそれらに頼らざるを得ないのだとを述べたことを思い出す(『中動態の世界』だったと思う、職場に置いてきてしまっていて確認ができないのだが)。

飲食店を経営している人々からすれば、自分の明日の生活がかかっているこの状況下で「コロナが悪い」と言わずにはいられない。この極限状態を想定せずに「コロナが悪い、って言っても仕方なくね?」という態度が取れるのは、もし自分がそういう状況に追い込まれたとすれば、ということを想像する力がない楽観的な見方による。私が言いたいのは、そういう意味で「コロナ」という原因を糾弾することの無意味性ではない。

 

突然大きなスケールの話に移行する、と思われるかもしれないが、人間というのは脆弱だ。

どれだけ偉大な仕事を成し遂げようが、どれだけの悪行を積み重ねようが、飯を食い、やがて死ぬという点では全く等しい。この平等さが、神の前での平等性であると言うこともできる。我々有限者は、絶対的な無限者の前ではすべて平等である。有限者の間にどれだけ力の差があっても、それらは絶対者の前では全く及ばない。人類最強と謳われたレスラーや多くの人を笑顔にしてきたコメディアンも、神の前では路上で死にいく名もなき人々と変わらない。絶対的なものの前での有限者の平等性がそこにはある。

注意しておきたいが、コロナウイルスが絶対者だというわけではない。我々が直面せざるを得ない世界の絶対性、世界がそのように動き、そのように働いていくところに面することのうちには、我々有限者はどこまでも苦しまざるを得ないということがある。自己の無力さというものを自覚せざるを得ないということがある。そこに自己の有限性、人間の有限性の自覚がある。そして——ここが重要だが——有限性の自覚は同時に無限性の自覚でもなければならない。

 

西田幾多郎は「人生何時までも心配苦労の絶える事がない、人生はトラジック〔悲劇的〕だ」と述べた*1。少なからず感傷的な彼の性格に重ね合わせてこの文言を理解しても良いが、それ以上にこの言葉は重く、大きなことを指摘しているように思える。生きるということは辛い。それは簡単には乗り越えられない。「生きるのは大変だが、生きてりゃいいこともあるし、がんばっていこうよ」と言う人は楽天家である。もっと己を見つめなければならない。自己自身を見るという方向に徹底していくとき、自己は有限性を自覚せざるを得ない。

「コロナが悪い」と言う「私」。この「私」とはなにか?

「私はコロナが悪いと思っている」ということだ。コロナを憎む私がそこにはある。

しかし「コロナを憎む私」をもよく見てみよう。「憎む私」は自分のやり場のない感情の発露だと考えることができる。

「やり場のない感情」はどこからきたのか?

それはこの現実の経験から来たのだ。人の言葉や感情に触れ、あるいは人の無力さに触れた現実の経験から来たはずなのだ。

我々はどこまでも現実の経験に立脚している。しかし、我々が触れるところの「人の言葉」や「感情」でさえ、非合理的だ。全てを知ることはできない。それどころか、目の前の「仲のいい」親友の言葉でさえ、我々は取り違えることがある。我々はまったく不完全である。言葉を介する限り、我々は目の前の大切な人とすら、究極的には「分かり合えない」。既に「言葉を介する人間」であることが、我々が有限であることの象徴である。

 

些か極端な例がすぎると思われたかもしれない。絶対的なものについては、我々が全く「無知」であらざるを得ないということさえ共有できればそれでよい。しかしそれは絶対的なものに我々がまったく触れていないということではない。まったく干渉のないものなら、そもそもそれは問題にすらならない。つまり「絶対的なもの」は、我々人間の有限な立場からはどこまでも尽くせない究極性を備えてはいるが、決して我々から断絶しているわけではないという、矛盾的な性格を帯びているということになる。

このような絶対者との関係こそが「宗教」である。少なくとも西田は明確にそう述べている。「宗教とは神と人との関係である」*2

 

日本人は「宗教」というものを蓋し「アヤシイもの」と見做している。1995年のオウム真理教の問題を通じて形成された、至極真っ当な解釈である。オウムのような新興宗教民間信仰、占いやスピリチュアリズムを「宗教」とみなしている限り、この見方はまったく正しい。我々はどうあがいても「座禅の最中に突然宙に浮く」ことはないし、洗脳的な物言いについては敏感に「忌避感」を覚えるべきである。

しかしそれらはいずれも真の「宗教」ではない。宗教というのは、「神と人との関係」であって、人と人との関係ではない。この点はまず先の西田から引き出されなければならないと思う。

したがって、宗教というのは単に道徳の延長線上にあるものでもない。道徳というのは結局、人と人との関係なのだ。それは相対者と相対者、有限者と有限者の関係にすぎない。だから道徳的な問題は「法的」になる。「〜すべし」あるいは「〜するべからず」という当為と禁止の公理になる。そこに「善悪」の問題が出てくる。「〜すべし」に則り「〜するべからず」を遵守する行為は「善」となり、「〜すべし」を放棄し「〜するべからず」を踏み越えて為してしまう行為は「悪」と呼ばれる。「悪」は裁かれる。「善」は尊ばれる。それが道徳の世界であり、倫理の世界である。人と人との関係の世界である。宗教はそうではない。宗教はそういうものを全て包み込んでいなければならない。

 

我々は「善」を為すが、同時に「悪」を為す。とりわけ極限的な状況においては、我々は道徳的倫理的な関係に留まっていられなくなる。『高瀬舟』の喜助は素朴な善悪観では裁けない。喜助が「人を殺すべからず」という禁止を踏み越えた事実は変わらない。その意味で彼は「悪人」である。当為に従う限り、彼を善人と呼ぶことはできない。そこで彼を善人と呼ぶことは、当為自身の破壊である。「人を殺しても善人である」が成り立つことになってしまう。そこに倫理的道徳的なものの限界がある。法的公理的なものの限界がある。

 

宗教はそれらを包む。親鸞は「悪人こそが救われる」と唱えたと言われる。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。*3

 

個人的なことに一旦触れたいが、宗教の問題について論じるとき、いつも頭をよぎる言葉がある。それが西田の「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せなければならない」という言葉である*4。宗教的なものについて論じるとき、自分はいつもどれだけ正鵠を射た理解と体験を有しているかが問いただされる。それでもなお、論じなければならない。

 

他力ということが問題になってくるということは、自力でどうにもならない問題に直面するということである。自力でどうにもならないという状況においては、自己は善悪の分別を踏み越えざるを得なくなる。コロナ禍で営業自粛を迫られる人々は、それでも営業せざるを得ないという極限状況に置かれている。いくら「法的に」自粛が「善」なるものと定められて規律を促されるとしても、明日を生きるためにはこの「法」を破らざるを得なくなる。「悪」に足を踏み入れざるを得なくなる。

人々はこれをもはや「悪」とはみなさないかもしれない。しかし我々はそれを簡単にごまかして「善」にすりかえてはならない。なぜなら、その一つ一つのすりかえが「法的な」ものを破壊することにつながるからだ。当為は常にいかなるときでも「〜すべし」である。ケースバイケースでごまかされてはならない。それは「法的な」ものに守られている自分たちの存在をも危うくする可能性があるからだ。例えば「人を殺すべからず」が、ケースバイケースとしてあるときには破られても構わないとすれば、それは我々や、我々にとって大切な人が実際に「殺されても」ケースバイケースとして処理されかねないということである。「法的な」ものそれ自体はあくまで我々の経験的感情に左右されるものであってはならない。そこに「法律」本来の厳格さがあり、「法的な」ものの残酷さと冷徹さ、そして人を規律する強さがある。

このような当為の厳格性は、カント倫理学に代表される。これについては一度書いたことがあるから、ここでは詳述しない。

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いずれにせよ、我々が「為すべきでない」——例えば感染拡大を防ぐためには、店を開けるべきではない——と考えていても、それを実行せざるを得ないような仕方で踏み越えていくとき、それは「法的に」は「悪」とみなされざるを得ない。しかしそのような仕方で踏み越えざるを得なかったということは、まさに自力ではどうしようもなかったということ、自己の有限性との接触である。そこに「悪人」であることの自覚も出てくる。人は「おれは悪くないよな?」とついつい周りを見る。それで「君は悪くないよ」という他人の言葉に安心する。しかしそれは、厳しいようだが、ごまかしなのだ。人によって人が救われるということは、本当にあまり言いたくないのだが、欺瞞だ。人間というのは「おれは悪くない、悪いのは……」という方向についつい考えてしまう。それでは一向に真の意味で「救われる」ことはない。彼が救われるためには、色々なやむにやまれぬ事情があったとはいえ、為すべきでないことをある意味で為してしまったという自己の「罪悪」を直視し、自覚することである。それは単なる道徳的倫理的反省ではない。「次から気をつけましょうね」の反省ではない。それをひとまず直視するというところに、自己のどうしようもなさ、無力さということが出てくる。それを「罪悪」と表現するのはあまりに酷だと人は言うかもしれない。しかしそれでも「自分に後ろめたさが残る事実」を直視することがなければ真の救いはあり得ない。なぜなら親鸞はそんな「悪人」こそが、「他力」の道に開かれているという意味で、救われるのだと説いたからだ。

親鸞の立場は「弥陀の本願」あるいは「絶対他力」と言われる。そこには、人間のどうしようもない無力さ、有限性が、他力によって救われるという意味がある。「他力本願」というと、自分で努力せずに人任せにするようなイメージがあるが、ここでの「他力」は人ではない、阿弥陀仏である。絶対者である。つまり「神(絶対者)と人(私)」との関係である。これが「宗教」である。もはやそこでは人と人との関係は中心にはならない。そこに宗教の問題がある。

 

歎異抄』の作者は親鸞の弟子の唯円だと言われているが、その最初の節を引いておこう。

弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。そのゆえは、罪悪深重煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々。*5

 

弥陀の本願は、老人にも少年にも、善人にも悪人にも適用される。なぜならそれは、我々有限な人間の「罪悪深重煩悩熾盛」な状況にもかかわらず、我々を助けるための願いだからである。この本願を信じること、それだけが必要であり、他に具体的な善行を為すことなどは必要ではない。本願を信じることは念仏を唱えることである。ここでは詳述しないが、「南無阿弥陀仏」と唱えること、そこに絶対他力の顕現を自覚することが、おそらく重要なのだろう。ただここでは、とにかく「宗教の問題」というものが善悪を超越した、即ち道徳的倫理的なものとは一線を画したものであるということが指摘できれば十分である。

 

もちろん我々は「念仏を唱えるだけで救われるなんて非科学的で世話ないわ」と考えることもできる。絶対他力とは、我々の力を遥かに超越したものである。我々がそれによって動かされ、それによって生きている、あるいはそれによって死ぬものだとも考えることができる。心臓の鼓動がなぜ動くのか、なぜ細胞は分裂して増殖していくのか、我々はなぜ生きているのか、その源に想定されるものである。しかしそれは、なにか彼方に捉えられてはならない。この宇宙のどこかに、それこそ根源的な神のような存在があって動かしていると考えてはならない(それが悪しき意味での形而上学である)。むしろ逆である。見られる対象の方向に考えるのではなく、見る自己の方向に考えなければならない。我々がそれによってものを見、それによって動くところ、それが西田が「場所」と呼んだ、宗教的なものとの接点である。それは自分から切り離された彼方遠くに見出されるのではない。むしろ近すぎて見えなくなっているだけで、常に我々はそれによって動かされているのだと考えなければならない。

 

自分自身を深く見つめるところに、どこまでも自分の愚かさ不完全さが自覚される。そこに宗教の問題がある。そこから全てが始まる。それをすっ飛ばして何かに原因を預けたり、何かを憎んだり、何かを嘲笑ってはならない。

 

最後に、西田がその後決裂していくことになる田辺元に宛てた手紙を引用しておこう。

「信なくして本当の善はあり得ないといふことは私も全く同意見です、私はそれを否定するのではない〔……〕唯カントの如く道徳価値の上に置くことには同意できぬ 宗教は道徳を超越しうる それをhöhere Moralität〔より高度な道徳性〕といへばそれまでだが量的極限でなく質的転化でなければならぬ 天の一方から一大エネルギーが突発して太陽系が滅却し人類などいふもの跡方もなくなつても宗教はあると思ふ」(大正15年5月10日付)

 

「天の一方から一大エネルギーが突発して太陽系が滅却し人類などいふもの跡方もなくなつても宗教はあると思ふ」。ここに宗教の根源性があると私は思う。人類なんてものが一切なくなっても「宗教」があるという不可思議さ、この事実を見つめるところから「宗教の問題」は考えられなければならないと思う。

*1:この点に関しては小林敏明『西田幾多郎の憂鬱』(岩波書店、2011)を強く勧めたい。

*2:西田幾多郎善の研究岩波文庫、2012、p. 229。

*3:歎異抄』(『真宗聖典真宗大谷派宗務所出版部、2008(1978)、p. 627)。

*4:「場所的論理と宗教的世界観」(上田閑照編『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989、p. 299)。

*5:歎異抄』同、p. 626。