古都の道場 西向き間借り

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依存症の超越論的弁証

健康増進法の改正に伴ってますます人々は実体の見えない「健康」を志向し、嫌煙を正当に喧伝するようになってきている。

煙草や酒は「大人」の嗜みである。「大人」であるとは、法令上成人していることを言うのではない。法令上の成人のみが「大人」であると本気で信じている人は、たとえどれだけ年を食っていようが精神的には未熟であると言わざるを得ない。

煙草を吸い、酒を飲むのは、自己が選択的に執り行う行為であり、またそうであるべきである。しかしこういう問題を考えるときに、人はしばしばそうした嗜好品の「依存症」を引き合いに出すことで、そこに自由意志を認めないように議論を展開していく。ここには超越論的なものが無自覚に導入されているように思う。以下で少しだけ考えてみたい。

 

依存症の核心は「やめたくてもやめられない」という点にあるとすれば、哲学的には意志と傾向性の問題であると言うことができる。これはどちらもカント哲学をベースにすることができる。

カントが『実践理性批判』の中で「傾向性」Neigung という概念で呼ぶものは、意志がただそこに基づいて従うべき「道徳法則」Sittengesetz に対して抗いを見せるような感覚的な欲望のことである。

道徳法則によるあらゆる意志規定にとって本質的なこと、それは意志が自由意志として、感覚的衝動の協力を得ないだけでなく、あらゆる感覚的衝動を斥け、また道徳法則に背く限りのあらゆる傾向性を払いのけて、ただ法則によってのみ規定されるということである。

—— Kritik der praktischen Vernunft., S.128[アカデミー版] 

カントの倫理学はしばしば「形式的で内容に乏しい」と批判される。しかしこの批判がそのままカント倫理学への核心的批判になっているかというと、それはなお議論の余地がある。カントにとっては「形式的」であることが、道徳法則が法則的に揺らぎのないものであることを確保する重要な契機だからである。

説明を簡略にするために、話をシンプルにしておこう。倫理的な判断に要請されているのは「善いか悪いか」ということである。我々がこれを厳密な現場で目撃するのは、大抵の場合法廷だろう。ある罪を犯した人間を裁く際には、ある基準が必要になる。それが所謂法律なるものであるわけだが、判決にはしばしば「情状酌量」が現出する。

「この犯罪者にも同情すべき点が少なくない」という仕方で減刑を図ること、これはカントに言わせれば、傾向性に基づいた判断であり、本当の意味で道徳的ではあり得ない。「同情」という不確定な要素を混入させることで、我々の判断は論理的な次元から感性的な次元へ移動している。なるほど我々は、同情によって人の罪を赦すことを、一見美しいと捉えるかもしれない。しかしそれは文字通り「偽り」である。論理的に考えるなら、そこには一切感性的な要素を混入させてはならない。論理的に「真」なる判断、つまり「偽」ではない判断を行うためには、絶対的な法則のみがその審判とならなければならない。カントはこの法則を「純粋実践理性の根本法則」と呼ぶ。それが以下の有名な法則である。

汝の意志の格率がいつ如何なる時に於ても同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ。*1

—— ibid., S. 54

この根本法則に背く行為は、その意味で常に「悪」であるということになる。我々は自分の意志の「格率」Maxime(まさにそのようにすべき、という当為)が、同時に普遍的立法の原理として妥当するような行為。平たく言えば、自身の主観的意志決定が、常に客観的な正当性をもっているように行為すること。これのみが、カント倫理学においては道徳的である。少なくとも自分は、カントの倫理学をそのように解釈している。

当然「普遍的立法の原理」とはなにか、という疑問が我々には生じる。それは多くの場合、内容的な解答を求めてのことである。具体的に「普遍的立法の原理」というのはなんなのか、どういうものなのか、ということを我々は問題にしたがる。しかしそこに内容を混入させようとするのは、この厳格な形式的法則に経験的残滓を入れ込もうとすることに他ならない。そこに経験的、感性的な内容を入れてしまうと、この根本法則は論理的な妥当性を失ってしまう。例えば「普遍的立法」を「日本国憲法」という具体的内容にしてしまうだけで、この法則は著しく歪められてしまうわけである。いわんや、個人の性情を反映させるような経験的内容を混入させることは、道徳法則の真性を損なうという意味で当然戒められなければならない。

カントの倫理学は「非常に厳しい」ということもよく言われる。しかしそれは合理的倫理学の極致でもあって、そのようにシンボル化されることに一定の意味がある。人は「カントは厳しい」と言う前にカント的な厳格さに一度は身を委ねてみるべきなのであり、その核心を掴み次第さっさと後にすべきだと自分は思う。カント的な倫理性を「妥当である」と判断できないようではカントの意図を超えることはできない。カントはまず、感性的性情の堕落的な側面から「真なるもの」「善なるもの」を救い出そうとしたのであって、その意義を解釈できないうちは「真」も「善」も客観的妥当性をもって語り得ない。「自分にとっての真理」や「自分にとっての善」を語る主観的道徳観の薄弱な根拠は、カントによって十分反省されるべきである。

 

些か入り込みすぎたが、とにかく傾向性に基づいて問題の善し悪しを考えるのは、まず控えられるべきである。「やめたくても」という意志決定が「やめられない」という傾向性に飲み込まれてしまうこと、ここから傾向性を理性的に戒めようとするとき、人は自然と「意志の薄弱」に行き着く。「やめられない」という欲望に自己の理性が支配されてしまうことを、人は一般に「意志が弱い」と表現する。その弱さを「依存症」という病として捉え、治療の対象に据えるのが現代医学だと思う。もちろん賢明な人であれば、それを「意志の弱さ」ではなく、体内物質の化学的状態や本人を取り巻く環境的要因に解体するだろう。だが、いずれにせよ「病気」として診断されるにあたって依存症の人間は、純粋理性の法廷で裁かれる「罪人」から「患者」にジョブ・チェンジしただけであって、彼の「欲望」それ自身の肯定が果たされることはない。傾向性を戒めるということは、カント以来合理性への信仰が教義に掲げている事柄ではあるが、それは道徳性の名の下にしばしば人を圧迫する。「健康増進法」はそういう論理だと思う。

そういう合理性から「欲望」それ自体の肯定へ焦点を当てたのが、フランス現代思想の賢人たちであった。自分はそれを詳述するほどの知識を持たないが、彼らは単に「欲望」を翼賛したのではないと思う。以上で論じたようなカント的な合理性の旗本から逃れて生きていく、人間の「規律訓練」からの逃亡をそれ自体として肯定することが、歴史的に求められてきたのだろう。それは純粋理性の先にある問題である。純粋理性以前の素朴な「傾向性」の議論ではないし、その意味でカント以前への回帰でもない。カントを噛み締めた上でその先に見出される問題が「欲望」の問題であると言わなければならない。

 

その意味で、「欲望」を極めて理性的に自覚しつつそれ自体として肯定する立場は、人が思っているよりも極めて高度な知的水準にあってものを考えている。「喫煙」に関する問題もそうである。単に理性によって統治するだけなら、厳しい「だけ」なのだ。その厳格さを厳格さとして引き受けつつ、しかしそれだけでは不十分であると強く主張すること、このことが何にもまして重要なのである。

 

カント的な立場から、即ち理性の立場から喫煙の問題点を列挙することは難くない。「やめたくてもやめられない」を意志の次元から無意識の次元にまで拡張すれば、それはほとんど負け知らずの論駁法になる。煙草をいつでも「やめられる」と言いながら吸い続ける人間に対して「吸ってるんだしやめられてないじゃん」という判断を下すことは容易である。経験を可能にする制約として超越論的なものを考えるなら、この判断はある意味で超越論的な判断である。煙草を吸う人間は、煙草を吸うというその経験的側面に照射される限り、「煙草を吸うこと」に依存していると判断され、常に「汎依存症的」な状態と診断されることになる。これはもちろんカントの transzendentale Dialektik とは内容を異にするが、ある意味で超越論的弁証と呼んでも差し支えないのではないかと思う。「依存症」であるという帰結をア・プリオリ*2導出する理性の推論、そこには何からの意味で越権があるのではないだろうか。この問題は構造的には*3カントですら指摘可能な問題なのではないか。

 

喫煙者を患者として見ることは、ある意味で罪人として見るより救いようがない倫理観だと思う。だが現状は「吸ってるんだしやめられてないじゃん」という判断を称揚し、喫煙者を依存症患者か非倫理的罪人として見ようとする人々が多くを占めているようである。別にたばこの何がいいとか言いたいわけではない。たばこは健康に悪い。だからどうした、というのが私の主張である。多くの人の嫌煙思想はまったく根拠を欠いている。私から言わせれば、その薄弱な思想根拠にもっと自省を迫るべきであって、そのことに無自覚であることの方がよっぽど通俗的な社会的常識や単なる理性の合理性に依存的である「依存症患者」だとすら思うのである。

 

 

 

*1:Handle so, daß die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten können. 

*2:このア・プリオリは単に分析的という程度の意味である。

*3:倫理学的には既に見たように、理性を至上に置く限りカントはこれに反対する立場をとることになる。