古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

哲学が学問であること

朝から懐かしい薫りがする。アメリカ民主党の演説。しばらく忘れていた「マトモ」で公共性のある言葉が翻訳されている。"You're Fired!"——この言葉のソースは自分はよく知らないが——文字通りにこの言葉がトランプ氏に対して突きつけられているということに、勧善懲悪の清々しさのような雰囲気が漂っている気がする。

 

朝からぼんやりと考えたいことがあったので記事を起こした。

自分の今の仕事は、思想の生まれるところを「基礎づける」ということである。もっとも、そこには基礎がない。我々がなぜこの世界に生まれてきたのか、我々はなぜ生きるのか、そこには答えはない。その答えは基礎づけられない(それを基礎づけようとすることで、独断的形而上学と呼ばれるものが成立する)。まずそこにおいては、いかなる内容的なものも、そして次に、いかなる形式的なものも抑圧される(ベルクソンは suppression de tout という表現を用いた)ことになる「絶対無」という問題が定立される。しかし、それは文字通りの意義を「絶対無」から捉えようとしたときの説明でしかない。「絶対無」とは、それ自身がそのように一つの「知識」として限定された仕方で我々に相対するときには、この意味でまず現れてこざるを得ない(このことを九鬼周造は問題にした)。絶対無は自己自身を判断的一般者の次元へと限定し、そこから主語面に「絶対無」という表現(パロールであり、エクリチュールである)を出力する。主語面に於いて考えられているこの「絶対無」が、我々が概念的知識として捉える「絶対無」の一面(それは多くの限定を経たところに成立しているから、全貌からは程遠い)である。このような道程(これは心理的過程ではない、という点が重要であり、その意味でマールブルク学派における Weg と Vorgang の区別を自覚的に設けておくことが肝要である)を描くことこそが、学問としての「哲学」の責務であるということになる。

「絶対無」それ自体を判断的一般者における概念的知識としての(即ち主語的な)限定として捉えるより他ないならば、九鬼が言ったように「絶対無はその実絶対の有でなければならない」ということになる。すなわちそれは理念的に作られたものであるということ(でしかないということ)になる。しかしそれは「決して限定せられず、しかも限定する」ような仕方で表現される。ここに見かけ上の矛盾が生じる。「決して限定せられず」という言明それ自体がある意味で「限定」であるということ。絶対無は決して限定されないはずなのに、「絶対無」という概念的知識の側面から限定的に把握され得るということ。このような逆説的な事態を生じさせるような絶対無、それを辿る必要が我々にはある。それが「場所」ということである。

絶対無はただ絶対無なのではない、絶対無は場所である。それは対象でも知識でもない。この発想は、その限定の問題を方法的に掘り下げたマールブルク学派においても十分に考えられなかったことである(なぜなら Nichts はそれでもやはり対象的に考えられているから)。このような「対象論理」を包み込む論理が「場所的論理」である。それは果たして、どこまで「学問」と言い得るのだろうか? そしてそこにおいては「基礎づけ」はどれほどの意味をもつのだろうか?

西田は「哲学は学問だという前に、まず学問の意味を問いたい」と述べた。それは確かに、彼の思索の射程が「学問」=主語的論理的、対象論理的世界形成に収まらなかったことを一面意味してはいる。しかし、それで「基礎づけ」は諦められなければならないということにはならないはずである。「基礎づけ」は基礎なき世界の基礎づけとなる。これをどう考えればよいのか。

まだよくまとまらない。今日は天気もあまり良くない。あまり無理せず、午後も仕事をする。