首をやってしまった。
別に言うほど重症でもないが、多少仕事に影響が出る程度には痛い。それでもこういうふうに画面に向かってしまうのは、完全に職業病だろう。この土日も、出勤こそしなかったが、結局家でほとんど仕事をしていた。おかげで明日以降が少しは楽になりそうではある。
原稿を一つ無事に出して、次は校務が立て込む。というか、校務はいつでも立て込んでいる。もうすぐ五月も終わってしまうし、そうなるといよいよ論文を書き始めないといけない。とはいえ、論文を書くよりも優先しないといけない仕事もたくさんあるので、そちらにできるだけ早めに手をつけて、あまり自転車操業にならないようにしたい。そのためには、土日をいくらか注ぎ込むこともやむなし、という感じだ。それにしても、頸椎周辺を痛めるほどというのは明らかによくない。
YoutubeでMeta社がAI投資に関連して従業員の大量解雇に踏み切ったというニュースを流し見した。本当に、何のための労働なのだろう、と思う。人はみずから地獄へ進んでいく。それをまざまざと感じるから、終末論的にもなる。
実際、どうなのだろう。世界は確実に終末に加速しているのだろうか。戦後の文化表象にも、核兵器と宇宙開発をめぐる議論の中で終末が描かれることは多々あった。人はいつの時代もエスカトロギーを語ってきた。だが終わりはなかなか来ない。
人類というものが終わってしまうということは、我々一人一人の個体がいずれ死を迎えるのと同じように、事実的であると思う。宇宙にとって、あるいは絶対者にとって、人類というものがほんの一部のささやかな生命でしかないことは、おそらく間違いない。だから人類の終わりは、別に歴史の終わりでも世界の終わりでもない。つまり、そんなことは、誰もが少し考えれば分かることなのだ。
ここで重要なのは、人間が終わった後の世界をそのように人間が考えるという、一種の自己欺瞞である。人間が存在しない世界を眺める視座を人間が持つということは、結局なんらかの意味で「我々」が(もはや人間でなくとも、あるいはまだ人間であっても)存在するという、そういうことであって、もちろんそれは「語り手」がいなければ文字通り何も存在しなくなってしまう以上、必然のことではある。だが、人間の終わりということを文字通りに解するなら、そういう語り手もなんら存在しない、またそれを見るものも存在しない、絶対の死ということでないといけない。
にもかかわらず、それを見るものがあるということが、西田の語る「宗教」の意味だと私は思う。人間が終わっても、世界を眺めるものがある。この目が神の目であり、我々は神でもないのにそういう視座に立つことができる。無論それは構想力における人間の傲りだと見るべきだろう。だが我々がそのような目線に立っているときには、我々は明らかに特殊を超えた普遍のまなこで世界を見ているのである。それが直ちに世界を見る神の目だと言うのは、流石に言い過ぎである(絶対無が映す、それは構想力ではない)。しかし、そうしたまなこが一般者の方向にあるということは、やはりそれとして重要ではないかと思う。それは直ちに神のまなこではないにせよ、人類のまなこなのだと言うこともできるかもしれない。「人類のまなこ」と「神のまなこ」を区別すること、このことは終末論的世界観において重要なのではないか、と考えてみる。
神のまなこは人類が滅びようが自然がいくら傷つこうが構わない。神の見る目はそれでも時間を流れさせ、宇宙を動かすのである。西田は「太陽系が滅却し人類などいふもの跡方もなくなつても宗教はある」という大胆な言説を残した。これは以前、以下の記事で紹介したが、今日人類のための宗教というものがまた流行りそうな時代だからこそ、宗教というものがそういう側面を持ちつつも、そういうところを根本的に超出してしまうようなものでもあるということを、私としては思わざるをえない。
ところで、人類のまなことしての一般者は、一般者の自覚的体系としてはいったいどこに当たるのだろうか。それは内的生命だろうか。内的生命の「人類」的限定面、とでも言うべきだろうか。いずれにせよ、それはやはり絶対無の場所ではないのである。人類のまなこというものを考えるには、中期よりも後期の方が概念的には探りやすいかもしれない。西田にとっての種という問題は、すでに類的種(田辺の使う意味ではない)であって、多様な生物、生命体の中の種なのではないかと思うが、このあたりはきちんと研究してみないことには自信がない。ともあれ、西田にとって人類というのは、すでに一つの限定体でしかあるまい。
にもかかわらず、人類という視座が重要であるということが、同時に重要なのである。我々は人類であって、やはり人類的社会において生きる生命なのである。人は人のなかで生き、人のなかで死ぬ。人のなかで苦しみ、人のなかで喜ぶのである。この「人」という枠組みそのものは、決して固定的ではないが、それでもやはり、我々の条件とか制約とかいう意味で、我々を限定する意味をもったものでなければならない。我々はやはり人として生きるわけだし、一生を送るわけである。その中に人間の現実というものがあり、人間の生活というものがある。
だから終末論というのは、こうした人間の崩壊を意味している。人間というものが人間であることを辞めてしまうかもしれない、人間として生きることを失ってしまうかもしれない、人間が跡形もなく滅びてしまうかもしれない、それが終末論の本質的な問題なのであって、ノエマ的方向だけを見れば苦しいが、ノエシス的方向から見れば一つの生命の終わりでしかない。
この矛盾のなかで、自分が人間であるが故に、人間の死をそれ自体として達観しきることもできない(そこで達観するところに、宗教者の自己欺瞞というものが往々にして出てくるような気がする)、そこに人間の終末論に対する自己矛盾というものがあり、恐怖や不安ではなく、悲哀がある。終末が恐怖や不安であるうちは、人間が人間として生きているというだけであり、そこではいくら「神の死んだ」近現代であっても、依然として人間は神に囲われた被造物にすぎないのである。恐怖や不安には矛盾はない。恐怖とか不安とかを感じるということは、そこでは自分の死とか世界の終わりとかいった「父」を前にしたエディプス・コンプレックスでしかないと考えることもできる。その程度の意味で語られる終末論を前にして出てくるのは、結局『黙示録』的世界観であろう。この意味では人々は21世紀になっても、依然として宗教的動物である。
そもそも人類は、終末に向かっているのか。仮に向かっているとして、それは避けられないのか。Memento Moriであるなら、我々はいったい何をなすべきなのか。終末を避けることなどできないなら、せめて緩やかにすることだろうか。しかし、それは終末に直面する人類世代の登場をいくらか遅らせることでしかないのではないか。
技術の成長は官僚的に遂行されている。金銭の授与と結果の出力が織りなしているとき、人間の人生全体の幸福というものはいつもなおざりにされている。人々は勤勉に仕事し、評価し、PDCAを回し、そうして人生の幸福というものからかえって遠ざかっている。それが終末における人類の形態であり、老年期なのだろうか。あとはもう、死を待つだけなのだろうか。
一方で、技術者たちは個人的な死を克服するために、そうした勤勉な仕事に励んでいる。たとえ核戦争が起きたとしても死なない、そういう身体が手に入れば、あるいは破壊された後でも復旧できる魂のデータがあれば、もはや終末などないと言えるかもしれない。いっそ魂のデータを宇宙に飛ばして、人工衛星のように旅行させてみたら安全なのではないか。だが、その魂は想起する魂であってほしい。忘れることがなければ退屈だし、それは本当に「データ」でしかない。風化し、忘失し、老朽化していく。そしてそうなると、結局またミスや勘違いがあって、いざこざがあって、愚かさは永遠に克服されない。
倫理的な結論としては、それでよいという話が一番わかりやすい落とし所になる。人は生まれたときに何も知らない。知識を身につけて行ったところで、せいぜい有限の知識しか身につけることはできない。それでも進歩があり、成長がある。愚かさの克服ということがある。だが、どこかでそうやって成長したものは朽ちていき、失われる。そうして新たな愚かな世代が出てきて、人類としては愚かさは克服されない。東浩紀が『平和と愚かさ』で語っているようなことは、世代間倫理の歴史哲学がまず認識しておくべきことだと言えると思う。
私の勤勉は、こうやっていろいろ考えたことを人々に公開するということでしかない。無論それに大した価値はない。それでも、首を労ること以上に優先して書き留める何かを、私は大事にして、さらにそこから何かを考えてみたい。