古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

哲学者の仕事に寄せて

終戦日。台風で、予定していた帰省が滞り、家でじっと過ごした。怒涛の忙しい日々が束の間の落ち着きを見せて、じっくり休んでいる。

 

先日は気心の知れた旧友とキャンプで久闊を叙した。この年になると、色々と生活や家庭のことを考える。そう大きな夢も語っていられない。目の前の手短な仕事の中で、幸せな日常を作り上げることが大切になる。

 

仲間の一人は自衛隊の軍備に関する仕事に就いている。

道中、防衛に関する日本の貧弱さを聞かせられた。彼自身は戦争に決して同意するものではないが、有事にあまりに何もなし得ない無力さにも危機感を覚える、と述べていた。この感覚は浸透しているように思う。決して戦争を肯定するわけではない。しかし、我々はいつの日か「巻き込まれる」かもしれない。戦争は一つの災害のようだ。

 

今年から倫理の教育に携わるようになって、実践哲学も視野に入ってくるようになった。

私は理論的基盤のないまま実践を語ることを、はっきり言って軽蔑していた。実践することを、ではない。実践を語ることを、である。実践を語るとき、語りは常に理論と結託している。その理論が薄弱なまま、実践を語ることは、実践することとも遠く隔たる。そう思っている。

だからやるのであれば、実践それ自体が一つの理論であって、理論を語ることが実践であるような意味を持っていなければならない。それが私の実践哲学である。

そうした指針を、私は西田—田中の理論—実践哲学に見ている。西田哲学も田中哲学も、極めて理論的に堅固なものに支えられて成立している。しかし、彼らはともに非常に強い実践的関心を秘めている。そこを掘り出していくのが、終わる目処の未だたたない博論が終わった後の、三十代の仕事ということになるかもしれない。

 

戦争をするということは、ヘロドトスの『歴史』のうちに既に掲げられている。私は戸坂潤や田中美知太郎のような哲学者にこそ、政治哲学と理論哲学の結びつきを見るべきだと思う。

 

今の時代は浅はかである。思想的にあまりに幼い。その幼さを嗜め咎めることができないほどに幼い。そういう時代にあって、哲学者の仕事というものを非常に強く意識させられる。

 

哲学は、必ずしも市井のためのものでもない。宇宙の真相に関する純理論的関心というものが、哲学の一面にはなければならない。そうでなければ、哲学は人間の文化的営みにすぎない、常に人間的たらざるを得ない、非人間的なものを照らすことはできない。非人間的なものを照らすことのない学は、結局人間も照らし得ない。

しかし、一方で哲学は人間の文化的営みでなければならない。それは人間にとって、社会にとっての関与を握っていなければならない。ゆえに哲学は非人間的なものを照らすことと、その中であまりに人間的なものにコミットすることとの両翼を持っていなければならない。

個人になるか、大衆になるか、人々の生き方は困難である。

何を切り開くか、何を示唆するか、人を広く導くということを考える夏の夜を思う。