古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

まだ見えてないものに手を伸ばすようなものを書く

年末。

一週間の休みで、年度末までの授業準備、論文の執筆修正、イベントの準備、大掃除、帰省と、やるべき仕事は多い。

が、なによりも毎日学生対応や授業に追われる日常から離れられるという意味で、少し心に余裕はできる。

 

昨日は大掃除で、今日は午後から妻の実家に用事があって帰省、単身で帰宅した。

帰路で読む本を持ってこなかったので、電車に揺られながらiPadで知人の論文を読むことにして、それでとても落ち込んだ。自分の専門に関わるような論点で、前へ前へと進んでいくような力強い論文だった。

自分は何をしているのだろう、と思った。

家族ができて、生活というものが安定して、教育と研究が混濁する中で研究の質がどんどん落ちているような気がする。苛烈な就職戦線から早々に離脱したことの偶然性に、いつも後ろめたさを覚える。家族にとっては経済的安定はこの上ない幸運だが、研究者としては首を絞めているように感じる。

こういう悩みは、当然パーマネントを求めて奮闘している知人には打ち明けられないし、かと言って安定に胡座をかいて研究の滞る傲岸な自分を見ないようにすることもできない。ままならない。

安定を安定として腰を据えて、自分のペースでしっかりとしたものを作ることが、おそらく自分がなすべき仕事なのだろう。とはいえ、自分が怠惰になっているのかと問われると、そうかもしれないとも思うし、そうでもないという気もする。毎日合間を縫って研究に時間を作ろうとしているが、休息や家族との時間を犠牲にするほどではない。後者を犠牲にすることが真に研究であるなら(そういう見方も実際あるように思う)、私は怠惰だということになる。

結局この独白も自慰にすぎないと言えばすぎないのだが、それでも開き直れない、振り切れないのだから、書き留めるよりほかない。

なんとなく停滞を感じてしまう理由の一つは、今書いている原稿がほぼ既存の知識を焼き直すようなレベルのものだからだろう。新しいことへの進捗がない。そういうものを書くときには、やはりいくらか前進を感じて鼓舞される。おそらく、まだ見えてないものに手を伸ばすようなものを書かなければならないのだ。ツイートもしたが、中途半端な身分で人にものを教えるようなことになると、器の小さい自分がつけあがってどうもよくない。まったく自己というものが矮小になってしまう。

今年はいろんな変化があった。だから仕方ないところもある。これは慰めだが、実際そうだとも思う。家も職場も身分も時間も、考え方や対する相手も、本当にいろんな変化があった。そして移り変わっていくということの中で、以前のものが壊れていくということも切に感じた。どうしてそのままでいられないのだろう。いっそどうして完全に消えてなくなってくれないのだろう。過去というものはとても重い。いつでも重い。自分は自分を追いかけてくる過去からずっと逃げて生きている。死ぬまでそうやって生きるのかもしれない。過去から逃げるべく未来を創ってきたと言ってもいい。

しかし創り上げた今もやがて過去になるのだとすれば、この今もどこかで後悔の念を孕んでいるということになる。人生を思う。こんなに自分の人生というものが醜く、恨めしく、恥ずかしいと思うのは、自分だけだろうか。第三者はこれを誇張と見るだろうが、私の過去のすべてを洗いざらい白日に晒して、それでも誇張にすぎないと言われるならこんなに安心することもない。

やや話が感傷に傾きすぎた。しかし感傷は私の哲学の動機である。これが悲哀だと思っている。しかし悲哀を告白することが哲学でもない。哲学は学問である。そこは弁えているつもりである。

ともかく、今年のことは目を瞑ろう。大いに仕事はした。が、それは必ずしも実りらしい実りをなさなかった。それはそれで事実だと思う。問題は来年だ。

来年の忙しさ、というよりも校務の深刻さは、はっきり言ってどうにもならないし、どうにも読めない。その中で、いったいどれだけのことができるのか、自信は決してない。昨年だって、そういう期待と不安の中で、とにかくいろんな計画を立てたが、ものの数日であっけなく頓挫した。安定を得て研究が滞ることへの大きな不安は、就職する前からずっと感じていた。だからそれがどうにもならなかったということが、大きな棘になって自分の心に刺さっているわけだ。

哲学の研究は孤独でないとできないのだろうか。そんな気もする。だとすれば、家族も職場も研究にとっては有害である。しかし、本当にそうなのか。西田は家族団欒の中の日常に深い哲学を見た。私はそういう哲学者に心惹かれた。西田の日記を読み返して、何よりも心慰められる気がする。正しく前を向けさせられるという心地がする。人生問題の他に哲学はない。家族や職場の中で、人に揉まれて現在を生きる自分の生に哲学がなければならない。その徹底に自己の哲学を考えるのが、西田哲学の引き受け方であることは疑いようもない。その引き受けを基軸に、いわゆる学界の中での人生をよく考えてみなくてはならない。

学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり。急いで書物よむべからず。[17/74]

ここ最近、いつもテクニカルなことで悩んでいる。もっと奥底に入り込んでみなければならない。