古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

Lambを読む

日曜日なので休んだ。

仕事を辞めてまもなく新年度が始まる。せっかくなのだから奮起して研究に集中する生活をしようと思って、今月はできるだけ意識しながら休んだ。明日から新年度を意識してきびきびやっていこうというわけだ。ただ、こうした塞ぎ込みがちな生活をいよいよ送るにあたっては、必ず意識的に休みを取らないといけない、ということを研究を数年やってきた人間として強く思う。「無理はできない」のだ。七日七晩研究に勤しむということは、ある意味理想ではあるが、それはできない。理想に反する現実に、却って余計に心を病みかねない。さすがにそれくらいは、自分のことながら分かっておかなければならない。

ただ、今までの「無理はできない」とはやはり意味が違う。本格的な研究に没頭し始めてからはずっと傍らで仕事をしてきたが、仕事をしているとどうしても早めにブレーキをかけることになる。「ちょっと疲れが出てるな」という感覚があると、喫緊の課題に追われていたり、何か手放せない用事があったりでもしない限り、有無を言わさず休養をとることになる。優先順位はもちろん研究が一番ではあるが、それはあくまで「仕事と関係ない時間」の下でである。仕事をしていると経済的には安定するし、そういう意味で心持ちも安らかではあるが、どうしてもルーティンの中で切り崩せないものとしてどこかで足を引っ張ることになる。

そういうものから自由になるということは、仕事を意識してかけていたリミッターのようなものがなくなるということである。多少無理が許される。「無理はできない」が「無理してもよい」といった具合である。そういうわけで、今後も土日のいずれかは意識的に休養日をちゃんと作って休もうと思う。

 

休む日は休む。休むことだけする。ここ数年は、これが意外とできないで困った。

「今日は研究はしないぞ!」と思ってベッドに横になる。寝る。気晴らしにネットを見る。ギターを弾く。そのうち、部屋のあちこちに積まれた本に、嫌でも目が移る。そうして気がつくと机に向かっている。そういうことがある。

別にいいのかもしれない。休んで活力があるのだから、動けそうな時に動くので問題はない。一番の問題はメリハリがなくなることだ。どこからが研究で、どこからが休息なのか分からない。そういうときが一番無為な時間を過ごすことになる。研究が進むわけでもなく、中途半端に疲労が抜けない、そういう感覚に陥ることになる。

だから、休むときは休むべきである。日常でも休憩を意識的にとるし、一日単位で休む日もつくる。この時代にこういうことを言っていると、怠け者の烙印を押されてしまうかもしれないが、自分の仕事は残念ながら自分にしか分からないので、そういうものをある程度不遜に押しのけてでも怠けるしかない。

 

たいてい朝起きていつも古典的な哲学書を読んでいる。今はフッサールの『論理学研究』を読んでいる。心理主義批判の巻だが、論理主義一般というものを考えるときに面白い。数学基礎論上の「論理主義」というものと、所謂新カント学派的「論理主義」というものを考えるときの、ちょうど媒介のような立ち位置になってくれるような気がする。で、読んだところを噛み砕いて、色々と書いてみる。そうしているうちにお昼になる。

朝一番に古典を読むというと、結構いろんな人に「よく朝からそんなヘビーなもん読めるな」と言われるが、ヘビーなもんだから朝のうちにコツコツやっておいた方が、案外読めるものだと思う。朝食を取りながらのそのそと一文一文読んでいくのが、波長に合っている気がする。古典は忙しなく読めないし、読むべきではない。そういう意味では朝が一番ふさわしい。

 

そういうルーティンも休養日にはできるだけ控える。少し先輩の研究者の方の生活などを少し伺うと、特に子供さんがいらっしゃる家庭では、時間がいくらあっても足りないようである。そんなのは多少想像力を働かせれば分かる話だが、あいた時間はとにかく研究!という姿勢で研究されている諸氏を見ていると、自分もやがてそういうときが来るのだろうか、そのときには今のような怠けた生活を恨めしく思ったりもするのだろうか、と考えたりもする。人生は難しい。

 

六時の寺の鐘がなった。毎度どこでならされているのか分からないが、古都の中心街の一つの風流とでも言えるだろうか。今日は一昨日届いた Charles Lamb の The essays of Elia を少し読んでいた。これは西田が「煖炉の側から」というエッセイの中で触れているものだが、彼が「ラムの諧謔はたゞのユーモアではない、諧謔の底に涙があるのだ」*1と述べているのを見て興味が湧き、仕入れた。

英語を読むということには、実はかなり本能的な抵抗がある。生来の語学の苦手意識というものがそこに圧縮されているからかもしれないが、純心にイギリスやアメリカに対してほとんど興味もなく憧れもない身としては、それは宇宙よりも遠くに感じられる。イギリス特有の貴族的な厳かさのようなものを勝手に感じているだけかもしれないが、アメリカの解放的奔放性にも入り込めないところがあるので、やはり英語一般にまとわりついたイメージと言った方が正確だろう。無論、厳かさとか奔放さとかは主観的で下卑た偏見かもしれないが。

 

ロンドンのイメージを最初に明確に持ったのは漱石の「カーライル博物館」を読んだときで、それも大学の一年か二年か、その頃だったと思う。英語を中学生以来やってきて、ロンドンのイメージがこの頃まで形成されていなかったというのも嘘みたいな話だが、実のところ他に思い当たる記憶がない。某有名探偵アニメの「ベイカー街」の表象は、自分にとってはアニメの世界でしかなくて、現実のロンドンのイメージにはほとんど結びつかなかった。よしんば世紀末のロンドンがすべてホームズ的なミステリーにとって代わられるのも、やや偏りがすぎるとも言える。いずれにせよ、ロンドンは自分にとっては倫敦であった。

 

以上の経緯からもつながる話だと思うが、英米文学には本当に明るくない。推理小説はそもそもあまり好んで読まないし、シェークスピアを一文も読んだことがない。いや、さすがにそれは嘘になる。大学に入学したばかりの頃、『ハムレット』や『リア王』が好きな文学女史とよく話をして、少しばかり手を出してみたりはした。だが、どうも教養以上のものを感じとることができなくて、結局今では何も覚えていない。当時としてはこういうことはよくあって、とにかく己の無知が恥ずかしいものだから、「古典」と言われる文学作品は手当たり次第読んでみたのだがたいていその面白さがほとんどわからず、それ以上身にならずに終わったものである。アメリカ文学もまったく無知に等しい。ご専門にされている先輩が、学部の卒業論文フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を扱ってらっしゃったので、それを読んだくらいだ。英米文学の歴史などもまったく分からない。自分にとって英米文学はあまりに遠い。

 

Lamb を今回紐解いてみて、改めてそういうことを強く意識した。例えばいかに自分がロンドンの表象を欠いているかということがしみじみ感じられた。が、それでも Lamb を読み続けてみたいという気持ちがなおあるのは、以上の経歴をもっている自分にとっては珍しいことである。そもそも『エリアの随筆集』は文字通りエッセイであって、所謂フィクションと言われるものとは異なる。フィクションには門番がいる。入れるか入れないかという問題がある。その点は数学に似ている。作られたものへの招待は、割合複雑なところがある。

その点、エッセイは基本的には短文の集積で、門番の検問を必要としない。別に通りたくないなら通らなくてよい、迂回して別の門から入ればよい、というようなところがある。自分の性には、そういうものが合っていると思う。また、エッセイにももちろん色々あるが、優れたエッセイというのはやはり、西田の言葉を借りれば「諧謔の底に涙がある」ようなところがあると思う。さくらももこのエッセイはまさにそういうものだと思う。無論「涙」というのも、単に悲観的なものではない。安っぽい同情を誘うものではない。およそそういう戦略的なものからは程遠い、人生のどうしようもなさを語るところに魅力がある。自分の底に徹して自分のことを自分のために書くということが、かえってある人にとってはその人自身よりも近い言葉を生むということもある。自己に徹すると他者につながるというところがある。

もっとも、自分は Lamb をよく読んでみたわけでもないから、エッセイというところに簡単にこういうことを結びつけるのは、それこそ安易かもしれない。Lamb を少し覗いてみて、どうやらそういうものがあるようだ、あるらしい、ということを嗅いだ。ただそういう話にすぎない。

 

本を読めるようになるためには、言葉を愛するということがないと厳しい。幼少期、自分はさくらももこのエッセイを何度も何度も繰り返し読んだ。漱石の『それから』も藤村の『破戒』も冒頭が強く印象に残っていて、そこに言葉としての愛おしさがある。

異国の言葉にもそういうところがなければならない。フランス語を学び始めたときに、師がランボーの sensation を読み上げてくださったことがあったが、そこで自分はフランス語というものに強く惹かれるようになったと思う。その言葉の意味ではなく、その言葉を愛するということがなければならない。Lamb は Children love to listen to stories about their elders, when they were children ; to stretch their imagination to the conception of a traditionary great-uncle or grandme, whom they never saw. という文から始まる小文を書いている。ここに門番のいない門がある。

 

 

*1:西田幾多郎全集』第12巻、岩波書店、1966年、p. 180