古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

牛歩に抗う

今日は授業も研究会もないため、休日にして家で休んだ。

数日前から咳が続いている。怠いとか熱っぽいとかそういうのがないので、とりあえずは問題ないが、たまに喉に来るようなタイプのひどい咳が出て辛い。

授業も研究も決してゆとりがあるとは言えないが、あまりゆっくり休めることもないため、思い切って療養した。休日は妻にも何かと気を遣う(これは自分のエゴな性分にすぎない)。なかなかない機会なので、よかったと思う。

 

こうしたたまの一人の休みに、つくづく環境が変われば考え方も変わるなと思う。亡き師匠は、就職してから思考のキレが鈍くなったとかそういうようなことを述べていたようだが、これは本当にそうかもしれない。というより、アカデミックな共同体のなかで、先端的な話をするということ自体が、だいぶ稀有な例なのだということを再認識する。現職では異分野の人との関わりばかりで、専門的な話はほとんどできない。専門の話をする機会が減ると、当然思考のキレは鈍くなったように感じる。なんとなく、保守的になる。

その分この一年では知識を培ったという感がある。研究に対して経済的に余裕ができていろんな本を買ったり、授業の関係上専門外のことを色々調べたりする機会が多かった。これはこれで本当に有難いことである。

それでも、執筆ということに関しての牛歩の如きは、なんとかならないものかと我ながら反省する。多分、これは思考のキレが鈍くなって、その分知識として何かを得ているということと無関係ではない。何かを切り捨て、生い茂る草をすばやくかき分けるような俊敏さ——それこそ前回書いたような、焦燥とは無縁のスピードが、いまは欠けている。何かを書くと同時に見えてくる背景のようなものがあって、それによっていくらか慎重にさせられる。

そうでなくとも、多方面に気を配るということは、進もうという意志に牽制をかけるものである。今は家族がいて、学生がいて、同僚がいて、研究者の仲間がいる。彼らを振り払って前に進むということはとても難しい。だが爆発的に書くには、それらを振りほどいて、前を見て、進むということがないといけない。

前回は速度の重要性に気づいたが、なぜそもそも愚鈍になっているのかという点にまで至らなかった。それは明らかに、充実した、幸せで有難いしがらみのせいなのだ。

 

時間は有限である。早めに切り上げて買い物をして帰る、困っている学生の対応をする、校務に従事する、授業準備に時間をかける。それはすべて、人への気遣いに基づいている。極端なことを言えば、これは自己疎外であって、この疎外によって得ているものと、失っているものがあるわけだ。

私がやっているのは、究極的には人間がいなくてもいい世界に至るまでの、現実というものの包括的な研究である。こう文字に起こしてみると、その難しさと自分の実力のあまりの不釣り合いに引け目を覚えざるを得ない。それでも、私はこれをやりたくて研究しているし、そこで難しさに怯むような自分でありたくはない。

 

どこかで牛歩に抗いたい。抗わなければならない。

「頭燃を払うが如く」ということを、どこかで生み出さなければならない。

そのためには、「あれもこれも」考えるのをどこかでやめなければならない。