古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

上半期を終えて

今年度三本目の論文を脱稿して、英文要旨を書き上げた。我ながらよくがんばったなと思う。

とはいえなかなか落ち着いていられない。というのも、ここまでで書き上げた原稿はいずれも昨年度までの研究成果のまとめ直しであって、今年度の研究成果は全然まとめられていないからである。今年度は「種の論理」の形成と数学の関係性、そして自覚的自己同一に基づく他者論時間論の解釈が主題で、どちらも目処が立っていないわけではないにせよ、まだまだ形にはなっていない。ちょうど下半期に入るタイミングでようやくこれらに振り切れるのはありがたいが、同時に高校の勤務も再開したため、このペースで果たしてやっていけるのか若干不安ではある。

 

最近は二つの研究会でそれぞれハイデガーの『カントと形而上学の問題』とフッサールの『論理学研究』を読んでいる。前者では主に新カント学派の立場からハイデガーを対照的に浮かび上がらせるような意図で、昔馴染みの人々と楽しく勉強している。フッサールは今第二研究で、ちょうどロックの一般観念の問題についてのところを昨日読んでいた。これを受けて、今日の午後は少しロックをまとめ直していた。が、どうにも腑に落ちないことがあって途中ながら辞めてしまった。そのうち再開しようと思う。

 

それで、注文して届いた森田邦久さんの『量子力学の哲学』(講談社現代新書、2011年)を読んでいた。自分は科学哲学は本当にわからない。ただ、田辺の研究を通じて田辺が「やりたかったこと」がしみじみ感じられて、実際関心も抱くようになった。博士論文で科学論を扱う気は全くなく、あくまで数学だけでやるつもりなのだが(何度も述べているように、自分の専門は数理哲学ではなく日本哲学史である)、カッシーラーなどを読むとちょっとやってみたいなという気になってくる。田辺は実際日本の科学史に十分名前を食い込ませるような人間で、特にマックス・プランクの受容と関わって桑木彧雄(桑木厳翼の弟)とともに名前が挙がるくらいである(辻哲夫氏の研究が参考になる)。プランクの翻訳を自分で出すくらいなのだから、そういう立ち位置にあっても決して不思議なことではない。また、田辺は量子力学をその黎明期から受容している。当時マイケルソン・モーリーの実験を『クワンテン仮説に就て』という論文で長岡半太郎が『哲学雑誌』に寄稿しており、田辺はこれを参照している(「相対性原理に対するナトルプ氏の批評」参照)。こうやって見ていくと、科学ないし科学哲学的に見ても田辺は本当に魅力的な哲学者なのだが、なかなかその魅力に気づくのは難しいなと思う。ともあれ、このあたりは議論の流れを追うのが精一杯で、読んだことは読んだが、その中身はほとんど抜けてしまった。彼の科学論を扱うなら、再読が不可欠である。

 

別にこれ以上手を広げて本気で科学論をやろうだなんて思っていないが、それでも素朴に興味があるから勉強してもいいじゃないか、という気持ちで買って読んでいる。気長に趣味で勉強を続けようと思っているような感じである。

 

明日も休みつつ、仕事のことや先に述べた今年度の研究について考えたい。