古都の道場 西向き間借り

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日本と応用倫理学

後期の授業準備の一環で、加藤尚武を読んでいる。

「日本での生命倫理学のはじまり」(2007)という短論文があって、これが加藤倫理学の一面を照らしているように見えるので、少し書いて所感を整理したい。

 

加藤はヘーゲル研究者から日本応用倫理学の先達となった。まだ彼が何を理念や問題としていたのかはよく分からないが、周りとのギャップについては記述がある。

われわれ日本人にとって英米の哲学に労を注ぐことは無駄だった。なぜなら、それはカントとドイツ観念論によってずっと前に克服されてしまったものだからである。

したがってバイオエシックスの導入には、さまざまな感情的な反発があった。私は、ドイツ哲学とりわけヘーゲルの研究に長年取り組んでいたが、私の教え子でバイオエシックスの導入に反対する者もいた。「加藤先生はご乱心である。決死の覚悟で先生にバイオエシックスという邪道から足を洗うようにおすすめしたい」と発言する教え子もいた。*1

 

日本哲学全体ということを視野に入れるとき、ドイツ哲学に偏重的な性格というのはしばしば語られる。

田中美知太郎は、田辺の『哲学入門』で必読書として取り上げられているものについて、「この選択のうちには、イギリスの哲学者が一人も入っていませんが、今日の実情では、それは奇異の感を与えるでしょう。エックハルトスピノザ、カント、ヘーゲルマルクスの線が特に重要視されているのも、ドイツ哲学好みの偏向と見られるでしょう。しかしわたしの個人的な好みも、やはり大陸の哲学者を取りたくなるから困ります」と述べている*2。もちろん、ドイツ偏向というのはイギリス・アメリカ的その他の民族的哲学が無視されているというほどの意味ではない。英米と大陸という近代の長い対立が引き起こす趣向についてはいろいろ考えてみたい点もあるが、ここは触るだけでひとまずよい。

 

彼が視野の中心に間違いなく収めていたのは、「現代の日本」という状況である。

現代における哲学研究の目的は、人類が共有すべき原則は何かを明らかにし、応用倫理学が現在提起している諸問題に対処することである。*3

論理的実証主義プラグマティズム、解釈学などあらゆる既成の方法論で、そのまま有効性が保証されているものはない。日本人は西洋哲学や中国やインドの学説を輸入したりしてきたが、われわれは、古今東西すべての知恵を総動員する覚悟でいなくてはならない。まず輸入し、それから修正し折衷するという、後進国型の戦略はもう有効ではない。世界中の人びととの同時性という課題を引き受けなくてはならない。*4

 

この内容を語る節を、加藤は「日本的生命倫理学は可能だろうか」という題名で飾っている。この題目は興味深いが、そこまで内容に準じたタイトルとは言い難い。日本的生命倫理学なるものが考えられるのだとすれば、そもそもそれはどういうイデーで構想されるのか、もう少し論じてほしかった。もっともそういうことは他の論文や著書で触れられているのかもしれないが。

 

加藤はこの論文は次のように締め括っている。

デカルトは、母屋というべき本格的な道徳律が確立されるまでのあいだ、「暫定的な道徳」という仮小屋が必要だと述べたが、永遠に「普請中」(森鴎外)という倫理学状況になりつつある。*5

 

デカルトの「暫定的な道徳」というのは、『方法序説』の第三部で語られるmorale par provision(AT, VI 22)のことである。この考えはヘーゲル研究者という感じがする。だが、あくまで人間の観点から見る態度はヘーゲルよりもasymptotischな面を強調したナトルプに近いようにも思う。

応用倫理学に向けられる批判の一つは、それがケーススタディとして蓄積を求める性格を一面に持つ以上、その本質からどれだけのradicalさを要求できるか、という点にあると思う。が、基本的な動機はおそらく逆で、事例があって初めてそこに対応するようなApplied Ethicsが要求されている、という流れなのだろう。

先の引用でもあるように、加藤は「現代における哲学研究の目的」をだいぶ狭義に限定して語っている。これにはパフォーマンス的な意味もあるのだろう。しかしそれが既に「人類」の視座に限定されてしまっていること、このことはやはり同意できない。

別に応用倫理学よろしく、動物の視座が欠けているとか、「ヒト」はいつ「人」になるのかとかそういう話ではなく、根源的に人類がいなくてもよい世界という観点から私は考えたいからである。

人がいない世界を人が論じるのは欺瞞的だと思われるかもしれないが、そもそも人というものを根本的に考え直すなら、人というのも明日ストーブに焼べられる一本の草と同じ存在の意味を持っていなければならない。それは厭世的だとかペシミスト的だとか言われるかもしれないが、そもそもなぜ人が「厭世的」なものを忌避するのかということが、十分自覚されなければならない。そこに人類というものを盲信している事実があり得る。そういう気分から出立する哲学は、結局心理主義の亡霊であって、自分の心理の外側に出られない。最初から外に出ていると言っても、それは真の意味で「外」ではない。我々はなお疑いうることをよく疑ってみなければならない。西田がデカルトを再評価することの意味をよく考えてみなければならない。それが行き着くところ単なるSkeptizismusにしかならないと考えるのは、懐疑がなお不徹底であるからである。

 

とはいえ、大衆化されたものを所与として現代日本というものを考えるときには、加藤の主張は決して受容できないものではない。純粋哲学と応用倫理学、これらを統合するわけではなく、別々の方向として考えることはできないだろうか。

 

もう一つ、興味深い示唆があった。それは「自己決定」ではなく「他者決定」を日本の応用倫理学の一つの航路に数え入れておくという点である。

日本では、ほとんどの事で自己決定不在であるのだから、自己決定にもとづく正当化という文脈は用いることができない。したがって、「自己決定のみが死を正当化する」という考え方を取り下げて、原則的には他者決定を認めるべきである。その究極の理由は、すでに自己が不在であるからである。ここにナチス安楽死の他者決定とはまったく違う点がある。*6

安楽死には当人の同意が不可欠であるという観点は、ナチス政権が精神病の患者などを当人の同意なしに「安楽死」させたことから、安楽死が正当であるための条件として導入された。しかし、昏睡していて意識がない、自然状態にすれば生きていくことができない患者にまで、無理やりに「自己決定」という枠組みを適用すべきではない。むしろ、家族に決定権をゆだねて、それが良識の枠組みに適っているかどうかを第三者的な機関が判定するというやりかたの方が、理性的であるように思われる。*7

 

これは一種の種の論理に則って考えられるが、個というものをどこまでも形成しようがないという可能性に留意する場合には、一つの意味を持つ。しかし、常に「誰かに決めてもらうこと」の全体主義的性格と、その日常レベルでの素朴な浸透性を考えることがどのみち論点になってくるだろう。「誰もが個人になれるわけではない」ということを考えることは、西田よりも田辺の方に迫った問題意識であった。問題はまた、純粋哲学の中に入っていくことになる。

完全な予測は可能になるのがつねに遅すぎる。民主主義的な合意形成が真に有効な条件は限られている。決定は即時に下さなくてはならない。伝統は沈黙。他者危害(harm-to-others)原則、自己決定は不可能。全員一致は不成立。多数決は不適切。*8

 

その場で決めなければならない深刻な事態に関して、何らかの判断を下すこと。法学や政治学、医学の世界にコミットするときにプライオリティをもつこの事柄に、どう留意しておくべきか。まだ考えがうまくまとまらない。

 

*1:加藤尚武著作集』第9巻、未来社、2018年、p. 374。

*2:『田中美知太郎全集』第八巻、筑摩書房、1969年、p. 154。

*3:加藤尚武著作集』同上、p. 386。

*4:同上、pp. 386-387。

*5:同上、p. 387。

*6:同上、p. 382

*7:同上、p. 383。

*8:同上、p. 386。