古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

田辺研究のこれからについて

人生でそうそう起こることのないド偉い過ちを犯してしまった。最近は本当に反省が必要だ、ということを思う。自ずから然る生き方、自由を考える中で、出過ぎたことをしてしまっているような気持ちにもなる。浮ついたことを考える前に、善く生きなければならない。

 

昨日はそういう暗いコンディションの中で、講演会に参加した。田辺研究者の仲間も増えてきて、色々と田辺の語り直しがある中で、西田や田辺の勉強をしたい、勉強会があれば参加してみたいという声も聞いた。

一晩明けて、そういう声が具体的にメールで届いたりもしていたので、今し方返信をして一息つきながら、改めて考えてみた。

 

田辺を読み始めるとき、何から読めばいいかという問題は、西田の場合と同様に非常に難しい問題である。自分も研究し始めるときに田辺研究専門の先輩に聞いてみたが、とりあえず解説としては辻村公一、田辺本人のものとしては『哲学の根本問題』が無難であるという回答を得た。今振り返ってみて、自分としても概ね異論はない。

西田の場合とは違う意味での難しさが田辺にはある。田辺の場合隅々まで分析が行き届いているがゆえに、読み手として議論したい部分が既に明らかにされてしまっていて、テクストの解釈をめぐって議論し合う、ということがなかなかできないような気がする。あるいは、その議論のために必要とされる前提知識がハイレベルであるがゆえに、実りのある議論をしようと思うとついていけない人が出てきかねないという問題もある。

 

先日査読に通ってしまった論文でも、そういうことを書いた。通ってしまった、という言い方で不快に思われる方もいるかもしれないが、学術的成果というよりもアカデミックにおける政治的な発案に近いので、正直に言って手放しで喜べないのである。テクストを綿密に解釈したり哲学的に実りある議論を構築したりしたわけではないので、後ろ指をさされるような心地がする。

そこで書いたことだが、田辺研究が盛り上がるためにはやはり田辺の魅力を味わいながら読む人が増えていくことが重要である。で、その魅力の一端を示そうともしてみたが、なんとなく欺瞞的な文章になってしまったので、心の底では恥じている。が、そういう声を出さないわけにもいかないので、恥を忍んで公刊してもらう他ない。

「田辺を読む意義」というふうに議題を定立してしまうと、これは難しい。手放しでアピールできないポイントが、専門の研究者として見てもある。でもそこに入り込んでみることで得られるものも確実にある。安易に巻き込まれると危険だが、その動力を体感することに大きな意義がある、という意味では、田辺哲学はまさに「渦動」である。

 

こういう渦動的な性格を見ていると、田辺は西田のようには万人受けするタイプの哲学者ではないだろうな、という実感がいよいよ身に沁みてくる。誰もが絶叫コースターに乗りたがるわけではないように、田辺の渦動は人を選ぶところがある。人を選ぶような哲学が果たして哲学だろうか、という批判ももっともだが、そこはもう彼の「哲学ならぬ哲学」を受け入れるしかない。そういうものとして受け入れた上で、それを楽しめる人がいるのもまた、事実なのだろう。

 

このように考えてみると、田辺哲学を全面的に研究として広めていくことは、万人に絶叫コースターを布教するような無意味な徒労であるようにも思われる。かと言って当然、それは一部の好事家の専有品になるのはもったいなさすぎる。一体どうすべきなのだろうか。

 

ここまで考えてみて、また別のパースペクティブが見えてきたことを最後に付記しておきたい。西田哲学が人々の依代になるような意味で田辺哲学がそうなることはおそらくあまりない。それは、我々のような人文学研究者の固有性の意義、人文知の担い手の「交換不可能性」とも関わっているはずである。西田はインフルエンサーだったが、田辺は学者だった。現今の人文学研究者の大半が後者であるということは、田辺にしか論じることのできないものが、西田にしか論じることのできないというのとは全く別の意味で考えられるということである(例えば現状初期田辺の数学論について、おそらく私以上の専門家がいないのと同様に)。そういう交換不可能性は、もちろん西田のような人物の交換不可能性に比べれば、所詮は知識人的という意味で、よほど交換可能ではある。それでも、人間が担いうるアンシクロペディックな特異点に対して、例えば現今のようなインターネット下でのオープン・アクセスな時代に、どのような位置づけを与えうるかという問題は、ここに関与することになるだろう。そういう意味では、田辺研究が盛り上がらないことと、人文学研究が(外野から見て好事家の趣味だと言われたりとか、教養が忌避されるとかいう意味で)盛り上がらないこととは、無関係ではないのかもしれない。