古都の道場 西向き間借り

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フッサールの三項図式とオノマの問題

以前国際学会で発表したことだが、場所をめぐる問題として自分が確定的な答えをいつか出さないといけないと思っていることがある。それがὄνοµαの問題である。

場所をめぐる問題としてὄνοµαというのは、すぐには結びつかないと思う。

場所は場所自身が限定する自己限定面以外の自己限定面として主語面、対象面、ノエマ面と言われる限定面を持っている。これらは所謂「於てあるもの」だが、於てあるものは場所論的に見て二義的というわけでは決してない。むしろ場所的論理が場所を問題にするのは、従来の哲学の視野が対象論理的と言われるように、この「於てあるもの」の地平のみを考えてきたからであって、なぜ従来の哲学が「於てあるもの」に限定されていたのかということにはそれなりの理由があるわけである。

だいたい場所というのは「主語となって述語とならないὑποχείμενον」に対して「述語となって主語とならない場所」としてほとんど定型句的に理解される。しかし、まあ素朴に言ってみれば、「場所は述語となって主語とならないものである」という言明において場所は主語になっているわけである。これは屁理屈のように聞こえるかもしれないが、自分はむしろ、そもそもあるものが主語的に措定されるという事態のうちに、なにか哲学的に根本的な問題があるのではないかと思っている。その意味では「場所は述語となって主語とならない」という言明の矛盾性は、刮目に値する。

見方を変えよう。「場所は述語となって主語とならない」という言明において指摘されている(つまりこの表現が指摘している hinzeigen)ことは、西田哲学において骨格的なタームとなっている「場所」の性格は、決して主語的な方向にではなく、むしろ述語の方向に見出されるべきである、という意味の示唆である。ここからフッサールが『論理学研究』の第一研究で詳論している「意味志向」と「意味充実」の問題を加えて考えてみたい。フッサールが両者を区別するのは、そこに対象性の現出が一つの契機として関わってくるからである。単に意味賦与作用によって意味というものが志向されても、つまり内容というものが現象しても、なおそれに対応する直観が欠けている場合は、意味は「充実」はしない。対象性が現出するということがない。そして対象性として問題になってくるものはイデア的統一体であって、「表現は対象を、表現の意味を媒介にして表示する(命名する)」(B49)。こうして、所謂「作用-内容-対象」という形で廣松渉が「三項図式」と名付けたものの関係が成立する。

ところで、場所というものの本質に照らして言えば、これは決して対象的なものではないわけだから、そもそも三項図式的に適応されないものであると考えなければならない。これは大原則的な話である。だが上述の言明のように、場所というものが主語的に限定される事実から敷衍すれば、場所という対象存在を思念するということもできるはずである(それが場所の本質的理解から全く逆の方向にあるにせよ、我々はそういう仕方で蓋し西田の場所を理解しようとすることの方が多いはずである。なぜなら我々は結局テクストという言明の集積から西田の場所を解釈するのだから)。「場所というのは……」と我々が語るとき(日常においても、討論においても、あるいは研究論文においても)、我々はやはり場所を主語的に措定しているし、そういう仕方で措定された場所という対象性を直観しながら、意味を陳述することになる。ということは、大胆に言えばこういう話もできるはずである、すなわち、我々が差し当たりこうして考えている場所というのは、場所ではなくて、むしろ場所のイデアであると言ってもよいのではないか?ということである。

我々が何らかの意味で場所について説明をくだそうとするときに本来場所というのはそれを映すものであって、決して主題的に注目されるものではない。つまりそれが主題化されているときですら、本来的に場所は常にそれを映すという仕方でしか関与していないのである。主題化されている当のものがどれだけ「場所」という呼称で名指されるものであっても、それは究極的には場所のイデアでしかあり得ない、というのが自分の考えである。

 

そしてこの事実は、やはり注意すべきことのように思われる。我々が場所について語るときに犯しているジレンマというのは、研究者によっても把握のされ方や活かし方に差異があると思う。人によっては、そういうジレンマの現前にまったく無自覚であるか、自覚的であってもその現前の矛盾的性格に西田の「愛好する」(この表現はよくも悪くも使用者と西田との距離を際立たせるものである)矛盾というものとの結びつきを看取して嬉々とする人もいるようである。だが、矛盾というものをもう少し我々はよく考えてみなければならない。これを「可能な限り判明なジレンマ」として解きほぐすことが重要であると個人的には思う(これをジレンマの解消と理解する人がいたとすればそれは全く論外である)。そのときやはり「場所」という言葉が示す対象性を何らかの意味で考えるということは無駄ではないだろう。

 

自分がこれをὄνοµαの問題として取り扱っていたのは、場所というὄνοµαと本来の場所を区別することから分析を始めたからである。そのとき特に意識されていたのは、我々が場所について語るということの問題を視野に入れることであった。西田研究として場所が主題化されるものは膨大な数がそれこそあるが、そこでは語るものとしての視点がどうしても抜け落ちてしまう。語るものの視点が主観的だと考えられて、客観的な研究に余計なものが入ると認識されてしまうからである。しかし語るものの視点というのはこの場合、real な個々の体験、つまりそのときその場所という時空間的制約に限定された経験的偶然的な事態を意味するのではない。むしろ全く逆に客観性を担保するものである(ただだからと言って、これを例えば現象学的にidealな性格によって処理してしまうと新たな問題が生じる。このことは今度の論文で書いた)。そしてそこにこそ本来「場所」という言葉によって示唆されているそれ自体は非対象的な直観があるわけで、我々が「場所」について論じるというときには場所のイデアないしそれと他の諸々の事物事態との諸関係ばかりが注目されてしまうが、そのときにこの本来の場所が失念されているということが、おそらくあると思う。

 

場所について考えるということは常に必然的に場所のイデアを考えるということであって場所として見るということを既に限定してしまっている。このことを指摘するだけでも、三項図式を適用して見ることに意味はあったと思う。

二、三他に考えるべき問題を挙げるとすれば、『一般者の自覚的体系』における叡知的一般者のような次元は以上で考えた場所のイデアとどのような関係にあるのか、フッサールの対象性は Thematisierung ということから考えてよいか、以上の問題を『クラテュロス』から基礎づけることはどれだけできるか、といった事柄が考えられる。が、いずれにせよ我々が「語る」ということを視野に入れる場合に言うべきことは以上最低限は示唆したと思う。