古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

戸坂潤と戦後日本哲学

西田、田辺に次ぐ京都学派の哲学的重要人物は誰か、ということを問題にするとき、それは人によって(つまりその人の基底をなす見方によって)変わってくる。絶対無の哲学を宗教的なものとの関係性で考えようとする人は、おそらく西谷啓治を置こうとするだろうし、小林敏明のようにある種の精神分析的関係を読み込もうとするなら、父なる西田に対してカインである田辺、そしてアベルである三木という関係を考えることもできるだろう。和辻や九鬼がこの文脈から位置づけられるということをは考えにくいのであり、おそらく妥当な線はこのあたりではないかと思う。

自分は彼らの延長線上に戸坂や下村を考えてみてもいいと思う。とはいえ、戸坂と下村は並置するにはあまりに異なった哲学者であると言わなければならない。彼らに共通するのは京都学派における、否、日本哲学史における科学哲学の伝統の継承者であるという点である。西田と田辺をそもそも科学哲学者の系譜において捉えるというのは、今日決してメジャーとは言い難いが、自分は日本哲学史における科学哲学の系譜というものをいやしくも考えようとするなら、その端は西田、田辺にあると言わなければならないと考えている。

そもそも今日における科学哲学のイメージは、おそらくほとんどが英米分析哲学とフランスエピステモロジーといういずれも戦後に大々的に深化拡大したものに依拠している。もちろんその根源はいずれも戦前に根を下ろしているのであって、深い探究心をもつ研究者はそのさらなる根源を歴史に尋ね、19世紀後半の論理学やそれ以前の科学哲学の所在を解き明かそうとしている(例えばイギリス圏で言えばハーシェル、ヒューウェル、J・S・ミル、このあたりの人たちだろうか。ヘーゲル派、新カント派といったものにもこういう問題の所在が認められる。個人的にはジクヴァルトの論理学を目にする機会が最近多いのだが、そういう関心だと思う)。それはある意味では「世紀末」以前に〈一旦〉還ろうという共同意識を示唆しているのであって、そういう共同意識が広まるには十分な理由が認められるほど、やはりそこには期待される未知と蓄積があるわけである。そのとき改めて、所謂戦後科学哲学というものにおいて、戦前の科学哲学的なものとの連絡関係が現に何らかの意味で断絶ないし喪失していたという事実が浮かび上がってくる。

少なくとも日本においてこれは顕著である。我々は「京都学派」の一旦の終焉を1945年に置くことができる。なぜならその年に首領的存在であった西田が逝去し、また左派的であったとはいえ先鋭的であった三木戸坂が獄中死を遂げ、西田の後続の哲学者たちもまた戦争責任を追及されていくというあまりに急速な減退が見られるからである。もちろん戦後も田辺は生き残って哲学を続けるし、高坂や西谷といった所謂四天王の復帰や、影に潜みつつも批判的継承をなしていく山内得立や三宅剛一などを考えることもできる。その意味では、おそらく1995年の下村寅太郎の逝去を以て「京都学派」の完結を語ることが一層適切であるかもしれない。しかし例えば藤田正勝先生のように、その継承をさらに考えるということもできるのではないかという立場もあるし、実際下村の逝去と同年の1995年から日本哲学史講座が京大に設置されたということは、「所謂「京都学派」以後の京都学派」を考える機縁にはなるだろう。だがここまで考えていくと、そこに関係する人々にとっては、自己の存在をそういう偉大な(ものとされる)系譜の末端に位置づけて「安心したい」というなにか一種の陶酔的なものが介入するか、あるいはその反動が形成されることになるから、その限りでは自分はあまり考えようとは思わない。実際そういう「派閥」への憧れのようなものは、反動的に形成されてもまったく不思議ではない。昨今「東京学派」というものを考える動きもあるが、それを歴史的に基礎づけようとする限り、それは京都学派という「派閥」への反動形成の意味を完全に払拭することは決してできないと思う。それがどれだけ京都学派に対してオリジナリティを主張しようとしても(現に西田にせよ田辺にせよ(東京)帝国大学の出身であるわけだが)、そのような主張自体は結局どこか虚しいものに終わるような気がする。「京都学派」の歴史的基礎づけを戸坂に求めるなら、戸坂を京都学派に入れるのか入れないのかは一つの議論になるし、少なくとも「東京学派」も同様の問題に晒されるだろう。それでも「東京学派」というものを定立するには、やはり何らかの根源的な動機や意味があるのだとは思う。それは決して無用ではない。だが例えば、他ならぬ西田は田辺を京大に招聘する際に「京都大学は京都の京都大学にあらずして日本の京都大学なることを考へて居たいと存じ居り候」*1という態度で構えていたわけであり、まさにそこに「京都学派」は生まれたのだから、一個人としてはあまりそういう問題設定に深入りしようとは思わないわけである。もちろん、そういう一見「中立的」な態度自体こそが、一つの桎梏になっているということを自覚しないでもないが。

ただ、いずれにせよラベリングとして「京都学派」とか「東京学派」とかいうものが便利であるのは一定間違いない。そして、やはりこのラベルが引き起こすのは、一つには「戦前」と「戦後」というダイコトミーだろう。東京学派というものが、大森荘蔵廣松渉、湯浅泰雄、坂部恵、 井筒俊彦などの哲学者を表すものと考えられるとき、それはやはり戦後日本哲学という意味を否応なく持つことになる。特に大森が率いた言語分析哲学の傾向は、明らかに戦前の哲学と一線を画するという意味を持っているし、その意味で京都学派的なものとはあくまで異質であることを志向しているように見える。この異質的な自己措定こそが、自分が思うに、日本哲学史における科学哲学的なものの戦前/戦後断絶を象徴している。そのとき京都学派の哲学は、ほとんど「科学的」であるとは見做されない。それは科学とある意味で対極的な「宗教的」哲学である、という認識が定着する。そうなると、戦前の科学哲学なるものは結局宗教的なものに回収されてしまう「時代の産物」であって、我々はそれを克服しなければならない、という反動が形成されることになる。 まだまだ勉強不足なのでかなりテキトーなことを言っていると思うが、少なくとも今の自分の目には、戦後日本哲学分析哲学的潮流の形成というのは、戦争によって物質だけでなく精神的なものも破壊されてしまったあとの世界において、「真の」科学哲学を建設しなおすという課題が一つの動機になっているように映っている。だとすれば、それは意識的に断絶を作り出すのである。そこには、連続的な系譜というものから手を切るという意図が含まれていなければならない。

 

ところで自分は最近、もし戸坂が戦後を生きていたら、今日の科学哲学はまた少し形の異なったものになっていたのではないか、ということをよく考える。少なくとも戸坂なら、そういう断絶が起こったとしても自覚的にそれに解釈を加えて公に発表するくらいのことはしただろうし、そうでなくとも何らかのアクションは起こしただろう。西田が「場所的論理と宗教的世界観」の終わりに「新しい時代は、何よりも科学的でなければならない」*2と述べたことも、晩年の田辺の「内容も解らずに議論してしまった」*3とも評価される数理哲学にも、何らかの意味で科学的なものに対する態度が含まれていたと我々が考えるなら、戸坂の態度はいよいよ常に科学的であったし、このことは彼の「左派マルクス主義者」というあまりに大きすぎる看板によって覆い隠されすぎているように思う。この点では、自分は船山信一の説に乗っかりたいと思う*4。戸坂潤という人を、単に「唯物論」的な哲学を喧伝して左派運動に東奔西走した人と皮相に解釈する限りは、こういった側面は見えてこない。戸坂を読み直すとすれば——というより自分はそういう読み方をするし、そういう読み方以外多分できない、という意味なのだが——まさに彼の「空間論」以来の考え方から洗い直さなければならないだろう。

 

実際、彼の空間論の発端である「物理的空間の成立まで」には、西田田辺の課題の批判的継承という意味を読み込むことができる側面がある(このことはいつか書きたいと思っている)。彼はなによりもまずカントから出発した。この意味をよく考える必要がある。

 

 

 

*1:西田幾多郎全集』第19巻、岩波書店、1966年、p. 555。

*2:西田幾多郎全集』第11巻、p. 463

*3:林晋「田辺元の「数理哲学」」『思想』1053号、岩波書店、2012年、p. 213。

*4:「日本においては西田博士も田辺博士も数学又は自然科学を反省され又その成果を取入れられた。之は両博士の哲学の特色でもある。その伝統を引つがれた、いな最も尊重されたのは戸坂さんである、その限りこの方面での西田、田辺両博士の後継者ないし発展者は戸坂さんであつたのである。それに対し三木さんは自然科学には大して顧慮を払われなかつた」(舩山信一「論理家及び批評家としての戸坂さん」『回想の戸坂潤』三一書房、1948年、p. 204。