古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

アカデミック・ライティングと高校教育

国際学会もあるし、いい加減真剣に勉強しないといけないな、と思い、初心に還るつもりでアカデミック・ライティングの本を一冊買った。幸い安く買えた。基礎的なことだが、基礎を疎かにはできない。生徒にも日々言っている。

大体のこの類の本がそうであるように、当たり前のことだが「なぜ研究をするのか、なぜアカデミック・ライティングということが重要なのか」という話から始まる。仕事から帰ってきてぼんやりこの項目を読んでいて、ふと閃くことがあった。

 

高校で国語を教えている身として日々思うのだが、「書くこと」は多くの生徒にとって遠いものである。我々のように毎日活字に触れ、なにかしら文章を書いて生きている人間とは、彼らはやはり根本的に異なった生き方をしている。

そういう彼らに「書くこと」の指導をするとき、多くの壁が生じる。もちろん「書くこと」の指導は、学習指導要領にバッチリ記載されているので、必要な指導項目であることは間違いない。だが「書くこと」それ自体の指導というのは実は極めて難しいし、多くの人は、どうもこれをごまかしながらやっているような気がしている(自分の周りだけかもしれないが)。

 

高校生が能動的に文章をしたためる機会は、意識的に教員側が作り出さなければ、決して多くはない。まして「打ち言葉」が主流な現代においては、「書くこと」の意義は素朴な観点においてはますます疑問視されている。そのうち「書くこと」もなくなるのだろうか。万年筆を大学ノートに滑らせて明治文語体で思索をまとめている時が一番ストレスなくものを考えられる自分のような人間は、「奇特な変人」で例外的なものとして処理されるのだろうか。

 

自分の例が些か極端であるとして、実際「書くこと」は様々な抑圧を受けながら平板化している。

小説や詩を書くことが「黒歴史」として忌避される時代である。ノートに書き残す自分の素朴な思いや感情の吐露は揶揄の対象になるし、そういう想いは「秘密」にされる。今は物語は直観的な漫画が主流だし、わざわざ「言葉」によってそれを表現しようとする人は相対的に少ない。そうした少数派ですら、やはり物語を書くということの一種の「恥ずかしさ」——物語は自己の欲望と関わっていると思う。こんなことは、ちょっと調べればフランス系の思想家が言ってそうなもんだが(リクールを私は知らない)、何かを夢想的に物語るということは何らかの意味で性癖を発露したいという欲望と無関係ではあり得ないような気がする——、その感情を抑圧する理性によって、他者の目から自身の作品を覆い隠すだろう。

そうなると、もう書くことというのは「オーソドックスな社会問題に対する自分の意見・主張」くらいしかない。つまり小論文だけが「書くこと」の主たる部分を占めることになる。そしてそれは、結局は一種の「アカデミック・ライティング」なのである。

 

もちろんそれは、大学進学を前提とする高校生には、やはり修めておいて欲しい技術ではある(これは大学側の人間からの視点だが)。しかし「書くこと」は何もアカデミック・ライティングだけに限定されてはいない。小説や詩だけでなく、我々にはエッセイや批評、散文もが許されている。こういう選択肢は、「書くこと」の指導においてはほとんど主題にならないような気がする。それはなぜだろうか。

 

そもそも「書く」というのは一つの欲求であって、促されたり規範化されたりするものではない、という考え方もある。なるほど、「自分の思うことを書きましょう」と言われても、特に普段からものを考えていなければ、書けと言われても書けない。「書く」ということは、明晰な形で他者に自分の思いや考えを伝達したいという欲求が結びついた行動である。そういう欲求がないのに書くことを促されても、正直困る。そして高校ではそういう生徒が大半である。もちろん自分のためだけの「書くこと」も、既に述べたように詩やエッセイといった形で、十分にあり得る。しかしそれは彼らにとって「書くこと」の可能性のうちには存在しないし、何より「指導」という形態の中で行われることはそもそも望まれないのである——自分の想いを教師に吐露するような生徒は、それこそ珍しい。そうなると、やはり「書くこと」一般の指導は難しくなる。

我々はある意味「書くこと」を生業にしている身だが、多くの生徒にとってはそうではない。そりゃ、本業からすれば「書くこと」は大切だろうが、別にそういうことを求めていない生徒にとっては、強制される一つのカリキュラムにすぎない。

 

ではアカデミック・ライティングが「書くこと」の指導の中枢を占めるのは、そもそもどういう理由によるのだろうか。

所謂「問題提起・自身の主張の表明」から始まり、「具体例」や「実証検証」を踏まえて一つの「結論」を導き出す小論文の構成は、なによりも採点がしやすいという利点を備えている。

教師は誤字脱字をまず閲して、その後構成について評価を行い、最後に内容を踏まえて点数を下す。内容の独自性ももちろん評価の対象だが、なによりもまず「形式」の遵守を得点化する。これによって、「書かれたもの」に点数がつくという事態が成立する。

 

小説や詩が点数化されるということは(比喩やレトリックとしてはあり得るにせよ)基本的にナンセンスである。個人の随筆について、我々はコメントはできるかもしれないが、そこに点数をつけることはできない。「書くこと」が「指導」の対象であり、そこに「評価」が加わる以上、どうしても「採点」可能性が射程に入ってくることになる。「評価」するためには、教師は「書くこと」をアカデミック・ライティングに限定せざるを得ない。

 

自分が高三のとき、同志社出身の知性的な先生が英語のライティングの受験指導で、従属接続詞のbecauseを単文で使用することはNGだということを強調していたのを思い出す。いま手元にあるアカデミック・ライティングの入門書にも、同じことが書いてある。しかし、会話においてはこの点はそこまで重要ではない。当時の自分はその区別がわからなかった。そのせいで、英語の先生は「同志社出身」で「すごい人」だから、そういう細かいことに拘るのかもしれない、ということしか考えられなかった。その意味が、当時はわからなかった。

その先生は、今にして思えばアカデミック・ライティングを下敷きにしてライティングという科目を教えていたのだと思う。それは何も不思議なことではない。我々が異国の言葉でものを書くには、やはりアカデミック・ライティングが確実であるし、誤りも発見しやすい。そこには何の問題もない。しかし、当時の自分には、ただ、わからなかった。だからライティングは「自由」な営みであるというよりは「制約」の塊であったように思う。

 

国語科の教師になって、同じようなことを思う。

生徒に重要な点を教える。主語と述語の関係を対応させること、文末表現や口語表現に気をつけること、構成を守ること。それらは大事なことだ。しかし、知らず知らずのうちに「書くこと」をアカデミック・ライティングに一本化してしまって、生徒たちに最初に多くの「制約」を提示することになっているのではないか。

それは到底「自由」な「書くこと」ではあり得ない。

 

この文章も、特に構成を意識したり、文語表現の適切さを優先させたりしていない。なぜなら、私はいま、書きたいからこの文章を書いているのだ。それが「書くこと」の本質であると思っている。

 

しかしこうした認識は、生徒たちには伝わりづらい。結局生徒たちにとって「書くこと」とは、多くの形式的制約に繊細に気を配りながら、あまり触れてこなかった社会情勢に対して何らかの解答を強制される「業務」にしかならない。それではあまりに、無味乾燥ではないか。

 

問題の所在を以上のように考えることができたとして、さらにこれを深化させることなどできるのだろうか。