古都の道場 西向き間借り

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夏の午後とピアノ——伊藤整の「生物祭」

割合よくある表象だと思うのだが、夏の午後のワンシーンに音数の少ないローテンポのピアノメロディを流すあの感じを言葉にしてみたい。

すっと頭に浮かぶのは細田守の『時をかける少女』だが、別にそれ自体に固有な表象というわけでもないような気がする。

 

夏は大抵けたたましい。だからそこに静けさが顕になると、なんとなく寂しい気持ちになる。かんかん照りの中で蝉が鳴くのと対照的に、エアコンの効いた博物館の表象はどこか虚しい。

戦前ではあるが、伊藤整の「生物祭」は六月の北国の「遅い春」が舞台となっている。父の危篤のために帰郷した主人公が、切迫する父の死とそれをめぐる複雑な感情に対して、対照的に生い茂る植物の生殖的な匂いに溺れようとする、条件付きのエロティシズムを描いた短編である。主人公にとって、季(すもも)や八重桜が醸す「匂い」は「頭を重くする」ものであり、それらは「咽せかへるやうに」花粉を撒いて生殖をおこなっている。その有り様が女性のエロスと重ねられている。

病院の看護婦、十歳の頃の女教師、中学生の自分の洋服を借りて歩いた親戚の年上の娘、あるいはその友達。個々の表象に対する欲望は、性の欲望であると同時に生の欲望であり、それは隣接する「父の死」とそこに付随する暗い現実からの一つの逃走線としても考えられる。

〔……〕看護婦等の肉体は粘液のやうなものを唇や腰部から分泌する、病院の光つた廊下をスカアトを曳いて走り、扉の握りを開くときに。

大きな髪の束が象のやうな女の耳の上に暗い陰をつくつてゐる。むつちりと白い肉の盛りあがつた女巨人。その女教師の燃えるやうな黒い眼がいま闇のなかに瞬く。

〔……〕それは私にかまつてくれない姉の友達等の消えた笑声である。そして突然それは悪しみをもつて私が投げ出した女の記憶であり、私の頭に今なほ満ちてゐる女性の群である。

もちろんさっきから話題にしているものは、こういうエロとは無縁の表象である。だがそこには脂っこくて湿った、生き物の動きがある。夏の午後は暑さのピークだ。そこにやかましく鳴いている蝉は性を交渉している。蝉だけではない。重さを伴う夏の午後は、ある種の「生物祭」であると言ってよい。

 

そこに対照的に静けさが映る。これはただの無音ではない。先に言ったようなピアノのメロディラインは、無音よりも一層寂しさを募らせるようなものとして置かれる。まさにこの寂しさが問題なのだ。それは、自分が夏に対して常に抱いてしまうある忌避感と強く結びついている。夏は終わるものである。自分にとって、夏の表象は常にその死と結びついている。そしてそれが、予料されているということが夏においては問題なのだろう。死の予期ということは、そのまま「生物祭」の主題でもある。しかも自己自身の死と直ちに結びつくのではなく、他者の死としてまず感じられ、受け止められるというところに重点がある。

父はこんな風にしてゐていいのか。自分の死にのぞんで父は何をしてゐるか。父は最期まで、ただ病人であり、病気を終ることによつて自分を終らせて悔ひる処はないのか。それは気力の消滅だらうか。諦めだらうか。でなければ、此処に来ても、まだ自分の死期をはつきりと知らうと欲しないのだらうか。〔……〕私は父を失ふ自分を忘れようとしてゐるのに気がついた。父を失はうとしているのは私か。さうだ。お前だ。それなのに私は自分自身のことをさて措いて、父の気持だけを推測してゐる。

夏の終わりは直ちに自己の終わりではない。我々は夏の終わりに自己の終わりと必ずしも無関係ではないものを予料しつつ、その静けさに追われるのである。夏の午後のピアノは、それを引き立てる。単純に音としてだけ見れば、夕暮れのヒグラシの鳴く音と同じ役割を果たしていると言ってもよいかもしれない。ただ、夕暮れはすでに終わりを現象している。祭りの花火にしても同じである。夜に鳴く虫の声も同じである。それらは「終わりの予料」という意味での予料ではもはや無い。終わりの予料は常に充実した、濃密な、汗ばんだむつこい夏の午後にふっと差し込まれるものである。それを感じたとき、私は虚しくなる。一年を通して一番長いはずの昼間が、あっけなく没していくのを感じる。

 

咽せかえるような生殖の匂いは欲望を誘いながら理性を呑み込もうとする。理性はそれに対してまず嫌悪感を示す。だから我々は通常それを払い除ける。「生物祭」の主人公が「ステツキを振りあげて、頭上の季の花の一番濃く群がつてゐる処を殴りつけた」のも、理性的な衝動である(東京で学生生活を送っているらしい主人公がステッキ片手に散歩しているというところに、すでに主人公のインテリ的な性格が垣間見れる。ここではステッキは理性の象徴として見ることができる)。こうした理性の抵抗が、却って花々を広く散らす。そして「殆んど私が嗅いでゐるに耐へられないやうな季の花」やその他の植物の中に、抵抗するどころかむしろ「倒れ込みたい衝動を感じ」ていく。その中に身を委ね、呑み込まれたいという、生物たちの欲望への欲望。その後主人公は子供じみた加虐嗜好で目に入った蛇を石で殺してしまうのだが、「その石をステツキでのけて見よう」としたとき、なぜか「私は躊躇」する。そして結局蛇の死骸を見届けることをやめてしまう。生物たちの欲望の中に飲まれた主人公が、今更にも「躊躇」してやめてしまったのは、ステッキという理性の象徴が目に入ったことで再び抵抗を取り戻したからかもしれない。

ここでは欲望は生物的な欲望に限定されてはいる。つまりそれは理性的なものに対する本能的なものとして考えられている。そういう意味では、ここでの舞台装置は「本能と理性」の二項対立である。無論この単純な図式にすべてを還元し切ることのできないのは、「父の死」というモメントがあることから明らかである。ただ、夏というものが一般にエモーショナルなものとして描かれるときに前提されているものは、やはり理性的に予料されたそれ自身の「終わり」なのではないか、という気がする。このことだけを示すのにこうしてだらだら書くのいかがなものかとは思うが、結局私が言いたいことというのは、そういう感じである。

 

夏の脂っこさは生物の犇めき合いであり、肉欲の伝播であり、なによりそういう艶かしい動き自体にやがて訪れる「終わり」の前の一つの迸りである。

ここからエロスを削ぎ落としていくと、一つの「青春」が整う。そこにはエロの残滓が残ってはいるが、それでも大元はいくらか脂っこさとともに差し引かれることで、風通しのよい情感が作り出される。それは一見涼しげだが、やはり本能的なものを基調としている。肉欲に代表される本能は無垢な衝動にすり替えられ、依然として理性とは対照をなすにもかかわらず、まだ「生」を表現する。それは無情に「死」を宣告する理性に対してはどこまでも気丈に振る舞うわけだ。そして、そうした気丈な振る舞いが世間を埋め尽くそうとするのが「夏」なのである。だがそれは「死」を「生の気丈さ」によって逆に呑み込んでやろうという、一つの無為で幼気な抵抗にすぎない。だから「死」は否応なく我々の耳元に囁きかけてくる。午後のピアノはその音色である。

 

そういうわけで、静寂よりも一層虚しさと切なさを引き立たせるあのメロディラインが告げるのは、何よりも「終わり」だと思う。そこに我々が「エモい」と呼ぶあのなんとも言えない感じが現象するのではないだろうか。