古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

研究費問題

急に夏が終わった。

一気に寒くなったせいでお腹を下したり怠さを感じたりしていて、研究がうまく進まない。月末締め切りの論文の修正がかなり滞っている状況でこの感じは本当にまずいから早く脱却したいのだが、なかなか身体が言うことを聞いてくれない。こういうときは時が解決してくれるのを待つのが一番なのだが、せめて修正に要する時間くらいは残して解決してほしい。

 

金銭的に色々と不安が出てきたので、師に相談した。するとやはり研究費を確保した方がいいのではないか、ということになった。以前からそういうことを勧められていたが、諸々あって結局やめてしまったのである。

今から書くことは、非常に個人的なことであって、本来人目に晒すべきことではないと思う。が、今の自分もやがて過去になって、未来の自分にとって「他人」になっていくだろう、ということを見据えて書き留めておきたいと思う。逆に言えば、それ以上の意図はない。

 

今の自分は研究をするという環境において非常に恵まれた状況にあると思う。

研究をするのに、最良の環境とはなんだろうか。無論ここでの研究というのは自然科学研究ではなく、人文学系の研究である。本を読んで書くのが仕事の研究である。

そうなると、まず「本」がなければ始まらない。

当然まずは資金面が問題になる。書籍代に要する研究費というのは、理系の実験経費に比すればえらく安価である。ぶっちゃけ個人で賄えないこともない。自分は学部を卒業して院に進学すると同時に高校で非常勤を始めたが、その給料の大半は「本」に消えていった。つまり必要な書籍を購入できる経済的安定性が重要であるのは言うまでもない。

先取していたが、自分が未だに実家暮らしということもここに関わる。正確に言えば院に進学する際に実家に戻ってきたのだが、とにかく自分で稼いだお金を生活費にそこまで回さなくてよいということは研究生活にとって極めて大きい。両親がまだ若い方で経済的に面倒を見てもらえるという状況は「運」でしかない。運がよかったと言えばそこまでだが、この考えも突き詰めれば選民、運命論になってしまう。この種の問題が厄介なのは、無自覚であればブルジョワ的だと見做され、自覚的であっても如何ともし難いということだ。色々言われると思うが、せめてそういうアドバンテージを活かして自分なりに頑張ってみるしかない、ということを自分に対していつも思う。

こうした「経済的な安定性」は月並みな条件で、これを欠いては研究はできない。哲学みたいな営みはなおさら難しい。それは究極的には「閑暇」(スコレー)に由来するのだから、物質的な余裕というのは重要である(こうなるとますますブルジョワ哲学的に見られていくから、自分としてはその辺りをもう少し丁寧に考えてみたいのだが割愛する)。

「閑暇」の問題にも関与するが、ただ生活が潤えば研究が進むというわけでもない。研究費問題というのは自分にとってこの点に関わる。研究費がどどんと準備されたとして、そこに基づいて生活が指導され、研究計画の遂行に舵を取らざるを得なくなるというのは、自分にとっては「嫌な」プレッシャーである。もちろん自分のしたい研究を申請するのだから、内容それ自体が鬱屈なわけではない。しかし昨今のシビアな研究費運営問題(横領や期限内の消費のための浪費)を目にしていると、素朴に「なんだかなぁ」と思ってしまうところがある。その辺まだ「若さ」なのかもしれないが、なんとなく抵抗がある。

自分にとって研究はそのまま生活である。研究者の人生は研究である(ここに人生の研究が人生であるという問題が含まれている)。その状況が比較的安定している現状が「最良の環境」にも思えるからこそ、そこに研究費の問題を考えることに、言い表し難い屈折があるわけだ。どうにもこれは書けば書くほどブルジョワ的な立ち位置にいることを切に感じさせられる。要するに「研究の面倒」ではなく「生活の面倒」をみて欲しいわけだ。それが研究の「最良の環境」だと言えるかもしれない。

こんなことを書くと、下手に偉ぶる非勤務人みたいな感じがして、つくづく嫌になる。一方で、研究だけやっていても研究はうまくいかない。音楽をやったり聴いたり、家事を手伝ったり、別の仕事をしたりする中で、案外エンジンがかかるものである。とりわけ哲学研究というのはそういうものである。西田が言うように、哲学の問題が人生問題の他にないなら、人生をよく知らなければ進まない。それは書籍の中だけにあるのではない。そういうトータリティを意識しているからこそ、研究費問題に違和感を感じるのかもしれない。