古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

哲学か諸哲学か

訳あって今日は朝からだいぶ神経を使った。明日は今日以上に神経を使うことになる。他に喫緊の仕事もないので、今日は家で大人しくしていた。

 

なんとなくレヴィナスフッサール論を読み返していて、『形式論理学と超越論的論理学』の中にある「哲学はただひとつしかない。真に現実的な科学はただ一つしかない。専門諸科学は自律性を欠いたその一要素にすぎない」という言葉が目に入って、ああそうだよなあと思った*1。ああそうだよなあと思ったのは「哲学はただひとつしかない」という点である。レヴィナスにせよフッサールにせよいくらかあるべき文脈の類は、私はまったく考えていない。ゆえに本当にこの話はただのぼやきとかにすぎないわけだが、西田も『善の研究』において「元来真理は一である」と述べたように、世界の動態は一であって(認識論的に、例えば一的に考えることができてしまう、とかいった話ではなく、存在論的に唯一無二であるということ)その動態を把捉することが真理の探究であるとすれば、それは実質としては多様ではあり得ないはずである。

多様の源泉とは何か、ということを考えるときに心理主義が力を持つと言えるなら、常に哲学は学としては心理主義的であってはならないということになる。心理主義的な立場の哲学というのはおよそありえない、と言ってもいいかもしれない。哲学はまずなにより心理主義的なものを自覚しなければならないのかもしれない。

多くの哲学があるわけではない。ましていずれの哲学を好むかというのは問題ではない。鈍くなった心身の中でぼんやりとそんなことを考えていた。

*1:原文は以下のとおり。Mit anderen Worten, es ist nur Eine Philosophie , Eine wirkliche und echte Wissenschaft, und in ihr sind echte Sonderwissenschaften eben nur unselbständige Glieder. (f. u. t. L. S. 240)。