休日の朝、ぼんやりと考えることを、適当にまとめる。
ChatGPTが学生に「チャッピー」という愛称で呼ばれるようになって久しい、とまでは決して言えないが、なんとなくそういう呼称がそれなりに安定してきた感がある。少なくともそうした愛称に、いちいち驚きを覚えることはない。だが依然としてそこには違和感と危機感、不安が入り混じる。
私は、極端な人種だと思うが、教科書ですら信じることのできなかった時期がある。何が本当の意味で正しいのか、何が正解なのか、ということが、とかく分かりにくい時代であることも作用していると思うが、信じたくてもどこまでが正しくてどこからが脚色なのか、一介の学生には分からない。そういうことを正当に(赤裸々に)描いてくれている教科書というものはない。だから私は、本当に一時期、本というものをまともに読むことができなかった。
戸坂が言っているが、教科書というものは、しばしばまったく完成したものであるかのように描かれるものである。だが、当然のこととして、学問そのものが完成態で存しているわけでは決してない(もしそうなら、学問というものは教条で十分であって、学的探究は根本的には必要ない)。にもかかわらず、教育制度や課程、具体的には成績評価や入学試験、およびそれらに関わる実務上の処理の意味で、それらはしばしば完成的に取り扱われることになる。あくまでその完成が暫定であることは、教育者であれば誰もが知っている。しかし生徒はまずそのラインで囲まれた区画を、できる限り緻密に自分のものにすることを求められる。それは要するに、全体というものが最初から与えられていて、それに対する適合不適合という仕方で評価に晒されているということである。ここに現行教育制度の課題がある。
それゆえこうした系統主義教育の反動として、探究型が模索されるということも謂れなきことではない。問題は、そこでの探究型は一方で、「ア・プリオリな正しさ」というものについて多くの場合無頓着で、「答え」の多様化に帰着せざるを得ないというところである。結局それは相対主義・懐疑主義に陥らざるをえない。「なんでもアリ」になってしまう。それは学問ではない。
ここまでは分かっている。だから教育は(ないし教育哲学は)ここからどうするかを考えなければならない。ここからまた系統主義か経験主義かという二元的対立に戻ると、結局それはイデオロギー闘争になってしまう。
話がそれてしまったが、ともかく教科書というものがそもそもそうした不安定な状態にあるわけで、学習者が何を拠り所とすべきか、という問題は私は結構真剣に考えるべき課題ではないかと思う。結局数学的なものが「正しい」という(明らかに偏っているにもかかわらずしばしば是認される)イデオロギーが力を持つのは、そのあたりの整備を数学が、良くも悪くもフランス革命後、École polytechniqueを基軸に制度化を歴史的に成し遂げたことに由来するわけで、idiographischな学問についてその辺りをどのように考えていくべきかということが、今日の大きな問題なのである。
事実、人々の多くは、ア・プリオリなものと経験的なものの区別というものを知らない。我々が正解を(ある公理的前提条件の下で)一義的に導きだすことができるということが、文字通り「正解」の唯一の意味であると誤認してしまうと、多くのことがままならなくなる。我々は自分の思想のイデオロギー的側面にたいてい無自覚で、自分が考えていること自体を対象化して考えるという営みに慣れていない。哲学(主に批判哲学)は、この点で今日重要な役割を担っている。とはいえ、このことを教育的に示唆することは決して簡単なことではない。私自身これを教育的に実践することの難しさは身に沁みて理解している。そこをなんとか突き抜けていかないといけない。
そうした点に細かい教育哲学的な仕事がある。これが適当になると、学生は本当にただAIを鵜呑みにするばかりで、AIの真理は(もうすでにいくらかそうであるが)教条化されるだろう。そのとき、我々はまた悪しき意味での(不正確な意味での)宗教というイデオロギーに染まることになる。
「分からないことがあれば、AIに聞く」ということが解決策の「終着点」となり、それが固定化していくということは、傍目で見ていて非常にドグマ的であるように映る。そこで重要なのは、そこに描かれていることが真理か真理でないか、という話ではなく(むしろそこに描かれていることが多くの場合「真理」であるがゆえに)、真理が公式化し、教条化していき、探究というものもなく、従って人々がAIに対する盲目的追従者となっていくという話に不気味さがあるということであろう。もはや現代人は自由ではない。そして自由でない自分を、自由であると思い、そうした状況で生きることに満たされてしまっている。
鵜呑みにするdogmatischな段階から、すべてが信じられなくなるskeptischな段階へ。だが、それだと教科書も含めて、何も信じられなくなり、本も読めなくなる。そこからいかにしてkritischな段階へ至るか。そういうことを考えている。