古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

生成AIの形而上学・生成AIの倫理学

授業時間内に、講義の総まとめとしてレポートを書かせていたら、一部の学生が熱心にスマホの画面をスクロールさせている。漢字や内容でも調べているのかと思いきや、どうやらChatGPTを使っているらしい。

細かい利用法までは見えなかったので、特に注意とかもせずに、そのままやらせた。

ううむ、と思う。

 

英語論文を読んでいて、一部の英文の意味にどうにも確信が持てず、今日の午前に私もChatGPTを利用した。

便利である。それは間違いない。

なんなら、生成AIを別に「機械」以上のものとして認識しているような気すらする。質問を投げかけるときには、AIが解析しやすいように言葉を選ぶし、それに対してAIもまた丁寧に応答してくれる。わからないことにも即時対応してくれる、優秀で面倒見のよい先輩のようだ。

そう、このような対応において生成AIは、ある意味人格的である。

少なくとも、我々はそういう気分で機械に人格を認めるということがあり得る。今後ますますそういうことが常態化すると思う。

 

単なる機械に人格的なものを認めるということ。

 

「人格的なもの」ということの意味を塗り替えるのに、この現代的現象は十分である。単なる絵や記号に対しても、我々はそこに擬人的なものを見出すわけで、こういう意味では人格は承認されるもの(Anerkennung)である。

もちろん、このように言ってしまうと、承認されなければ人格は存在しないのかというような話にもなる。人格の存在に承認が要件としてあるなら、極端なことを言えば、「私はあなたを一人の人格として認めません」と宣言する輩と対峙する場合には、その人にとって自分は非人格的な存在だということになる。しかしそれはどうにもおかしい気がしてくる。仮に自分が非人格的であるとするなら、そのように人格的に考えているこの自分はいったいなんなのか。機械ではあるまい。つまり、人格は単に他者からの承認だけでも説明できないものだと言わなければならない。

こうなると、二つほど考えることができそうな道が見えてくる。

まず、「承認作用」(anerkennen)というものはそもそも各人が任意に認めるとか認めないとかを決定するような類のものではないと考えることができる。西南学派のリッケルトは、『認識の対象』のなかでErkennenとはAnerkennen(あるいはVerwerfen)だというようなことを述べているが、この意味でのAnerkennenは、そうであるべき事柄に対してそうであるということを承認する、そういう態度として殊更に強調するでもなく受け入れるわけで、ここには別に随意性があるわけではない。少なくとも、多様な選択肢の中から一つを選り好みすることのできるような余地はないのである。承認されているところからすでに認識は始まっている。だから、「私はあなたを一人の人格として認めません」という態度決定における承認と、本来人格の承認ということで意図されている事柄との間にはギャップがあるかもしれない。我々は、個々の書類に印鑑を押すような仕方で個々の人格を承認しているわけではない、ということである。

もう一つ根本的な見方として、承認が人格の存在要件なのだとすれば、この私の人格性というのは、私が常に承認している、という考えもあるように思う。「承認」は何も他者からなされる必要はない、という発想である。私が私自身を人格的なものとして承認している、その限りでは私もまた——殊更に誰かに承認される機械を待つまでもなく——人格的である。こういうふうに考えることができる。

実際、私が自分自身を人格的なものと見做さない、というケースも考えられる。今日ではリストカットや薬の過剰服用などで自傷行為をする例は巷に溢れているし、自分自身を無機質なものとして捉えるということは、そう珍しいことではないのかもしれない。そういう人に対して「もっと自分を大事にして」という声がかけられるのは、他者はその人に人格性を認めているのに、当の本人は自分を人格的に承認していないという事態だと言えるかもしれない。

この意味での承認は、明らかに単なる経験的事実ではない。そういった諸々の経験自体を条件づけているという意味で超越論的な意味を持っている。私が私自身の人格性を超越論的な仕方で限定し、制約している。

ただ、この話に行ってしまうと、当初の話題から結局逸脱してしまうのである。我々はAIの人格性を問題にしているわけであって、この話でそれをしようと思うなら、 「AIは超越論的に自己自身を制約し、自己に人格性を承認するような根源的な「私」を有するか?」というような展開になってしまう。つまり、AIに「私」というものはあるのか、というのが、この話の行き着く一つの終点なのである。

しかし、それで「私」とは何かということを考え出すときに、また「人格的な何か」を持ち出そうものなら、これは完全に循環論法で、考察は失敗に終わる。この流れで「私」というものを説明するのなら、「人格的なもの」はもはや持ち出されてはならないのである。

こうなると、この種の「私」に対する考察をする場合は、永井均の考えている〈私〉の特権性のようなところをどうしても加味しなければならない。そもそも西田の「個物」もそういう意味で読まなければならないところがある(ただ、個物の解釈は存在論的な話が中心になって、認識問題がどうにも希薄になるのが難点だ)。超越論的なものが超越論的なもの自身を承認するのだとすれば、それは一般者の自己限定であって、個物が個物自身を限定するということではない。上のような意味での一般者の自己限定自体が、個物の自己限定によって逆に包まれるというような意味がなければ、この種の議論はできないわけである。よくあるように、個物が単に一般者に於てあるだけなら(つまり関数概念において個別的存在者が、もしくはハイデガー的に言うなら「世界」内存在として現存在が考えられるだけなら)——西田哲学というものが〈その程度のもの〉でしかないのだとすれば——これによって人格の問題に清算を与えることはできない(この意味で、私は西田の「私と汝」の議論というのは、人口に膾炙しているような通俗的な相互承認のお話ではないと思っている)。

 

ともかく、AIにおける「私」というのが個物的であるのか一般的であるのか、ということは考究の上で一つの端緒にはなりそうである。その「私」は誰でもあって誰でもないのか、それとも個物的な存在であり得るのか(もっとも、その場合は「個物」の意味自体が明確に規定されなければならない)。

無論これは、倫理的な問題というよりは純粋な形而上学である。AIの形而上学も重要だが、今はどちらかと言うとAIの倫理学が喫緊の課題である。前者なしに後者もあり得ないわけだが、デカルトの考えたように「仮の道徳」というものでも無いよりマシなわけで、いくらか試論めいたものを考えながら書き綴ってみるのも無駄ではあるまい。

 

試みに和辻倫理学を手引きにして「AIとその使用者」の間柄(倫)、その「理」を問うて(学)みる。孟子の「父子有親」とか「朋友有信」とか、ああいうものを和辻も挙げているが、その中で「私AI」は何を有するのか。これを考えてみる。

もちろん、こんなものはAIを人格的に捉えた上での思考実験であって、AIを道具的に捉えるのなら、この定式はそもそも相応しくないと言うべきだろう。私と単なる道具であるAIとの間に、何ら間柄というものは存在しない。要するに、人工知能は——私とそれとの間で間柄的関係が成立するような——「人」ではないということだ。

だとすれば、この道具を利用する上での「倫理」(≠ethics)、つまり間柄の理とは何だろうか。

間柄を想定する倫理学において道具の使用一般が問われ得るのは、この道具の行使が他の誰かとの間柄に背理することがあり得る場合である。それも単なる他者危害の原則の話でもない。他者危害原則論の有効性は、基本的には自由を至上とする現代の価値観の中で浸透しやすいという経済性に由来するのであって、その実質的な意味としては不可侵条約以上の道徳性を持たないと思う。人に危害を加える、加えないという単純な価値判断は「危害」の意味を感情化することで快・不快の二元性に容易に結びつくし、そうなると実質的に我々の行為の善悪は、「自分が/相手が、傷ついたか/傷ついてないか」という小突き合いに回収されてしまう。「理」というのはそういうものではないはずだ。

もちろん、例えば原子爆弾を行使するとかしないとかいった話をするときには、他者危害の原則はプラグマティックな意味を十分持つはずである。が、目下の課題においてはこの種の話は排除しなければならない。なぜなら文脈が「教育」であり「自己形成」だからである。レポートをChatGPTに書かせることは、他者に対して危害を加えることに直ちには結びつかない。それはどこまでも自身の問題だからだ。

ごちゃごちゃとまとまらない思考でも書き連ねてみると、どうも「自分のためにならない」ということをどのように正当化するかということが関わってきそうである。しかし、また「自分」なのである。結局「私」の問題に戻ってきてしまう。「あなた自身のためにならないよ」という言説が当人に響く場合と響かない場合とがあるのは、後者においての「自分」が、言われている「自分」と一致していないからだろう。我々はいくらでも「自分」というものをミニマムに(しようと意図することなく)できるわけで、それを通じて他人に言われる「自分」と自分が思う「自分」とを切り離すことができる。まこと自分というのは都合のよいものだと言わなければならない。

ChatGPTを使うこと自体は、善でも悪でもない。それは他の技術利用と大差ない。問題は、この技術の行使が状況において有する「不正」(教育上の行為としてはカンニングである)を、どのように処置するかである。

あるいは、身体の延長線上に道具を置くように、我々にとってAIが身体の延長になるのだとすれば、それは歴史的な結末と言わざるを得ないような気もする。そんなものの是非を問うたところで、歴史はそうやって動いていくだろう。仮想空間で振る舞うのが我々の「日常」になりつつあるのと同じように。

 

しかしこの種の結論は技術一般に対する見方であって、別にAIに突出した話でもない。AIの倫理学というのも、考えるべき論点が多い。たった一つの課題の処理にAIを使うことに、果たしてどれだけの問題があるのか、改めて考えるべきはそこなのかもしれない。

而立を前にして

正月帰省からの帰路。本を読む気にもなれないし、ネットを見ていても嫌な気持ちになるので、電車に揺られながら眠る妻を片目に書く。

 

帰省すると、嫌でも過去を思い出すことになる。

過去というのは重い。どこまで行っても拭い去れない。過去というものは過ぎ去ってしまうとゼロになってしまう、完全に消えて無くなってしまう。にもかかわらず、それは現在において大きな力を持つ。なぜだろうか。それは過去であって過去ではないということになる。過ぎ去っているのに過ぎ去っていない。そういうものが過去と呼ばれている。

輝かしい過去というものがあるとすれば、ほんの限られた思い出だけである。それ以外は無意識における抑圧の対象である。思い出したくない、触れられたくない、掘り返されたくないものである。しかしそれはどこまでも自分なのであり、現在にあって切り離すに切り離せない。過去と未来の非対称性を思う。

 

現状にあっては言うまでもないこととして、2024年は日本にとって最悪の幕開けだった。

能登半島の大地震が起きたとき、私は妻と神社の境内にいた。小吉のおみくじを引いた直後、喧しく周囲の携帯が鳴り響いて、まもなく境内も横揺れに包まれた。不気味な新年の幕開けだったと言ってよい。

翌日は妻の実家に挨拶に行って、同窓会に向かう妻を見送った後、実家ではしゃぐ姪甥に囲まれながら航空機事故の報道を目の当たりにした。ただただ、無念というほかない。

 

誇張なく暗い年明けである。今朝実家を出て同窓会を報告する妻と合流して、過去というものを重くのしかけられた。無論妻には何の非もない。むしろ、楽しく思い出を共有できない自分に、こじれた自分に、大いに問題があると言わなければならない。

どこかでそういうものと向き合わねばならない。そうでなければいつまでも大人になれないような気がする。小さなことにひっかかる小さな私が、まだ全然消えてくれそうにない。

 

神社の御籤を見ても、書店で暦を見ても、今年はなすべき仕事を淡々となして、悪気なくとも余計なことを言わずに誠実であるべきだと諭された。違いないと思う。今年はなすべき仕事をする。そして、なにより誠実であるべきである。学問的態度としても、仕事の態度としても、家庭でもプライベートでも、上辺ではない誠実さというものとよく向き合わねばならない。それが而立を前にした自己のあるべき姿を見てであるように思う。

 

まだ見えてないものに手を伸ばすようなものを書く

年末。

一週間の休みで、年度末までの授業準備、論文の執筆修正、イベントの準備、大掃除、帰省と、やるべき仕事は多い。

が、なによりも毎日学生対応や授業に追われる日常から離れられるという意味で、少し心に余裕はできる。

 

昨日は大掃除で、今日は午後から妻の実家に用事があって帰省、単身で帰宅した。

帰路で読む本を持ってこなかったので、電車に揺られながらiPadで知人の論文を読むことにして、それでとても落ち込んだ。自分の専門に関わるような論点で、前へ前へと進んでいくような力強い論文だった。

自分は何をしているのだろう、と思った。

家族ができて、生活というものが安定して、教育と研究が混濁する中で研究の質がどんどん落ちているような気がする。苛烈な就職戦線から早々に離脱したことの偶然性に、いつも後ろめたさを覚える。家族にとっては経済的安定はこの上ない幸運だが、研究者としては首を絞めているように感じる。

こういう悩みは、当然パーマネントを求めて奮闘している知人には打ち明けられないし、かと言って安定に胡座をかいて研究の滞る傲岸な自分を見ないようにすることもできない。ままならない。

安定を安定として腰を据えて、自分のペースでしっかりとしたものを作ることが、おそらく自分がなすべき仕事なのだろう。とはいえ、自分が怠惰になっているのかと問われると、そうかもしれないとも思うし、そうでもないという気もする。毎日合間を縫って研究に時間を作ろうとしているが、休息や家族との時間を犠牲にするほどではない。後者を犠牲にすることが真に研究であるなら(そういう見方も実際あるように思う)、私は怠惰だということになる。

結局この独白も自慰にすぎないと言えばすぎないのだが、それでも開き直れない、振り切れないのだから、書き留めるよりほかない。

なんとなく停滞を感じてしまう理由の一つは、今書いている原稿がほぼ既存の知識を焼き直すようなレベルのものだからだろう。新しいことへの進捗がない。そういうものを書くときには、やはりいくらか前進を感じて鼓舞される。おそらく、まだ見えてないものに手を伸ばすようなものを書かなければならないのだ。ツイートもしたが、中途半端な身分で人にものを教えるようなことになると、器の小さい自分がつけあがってどうもよくない。まったく自己というものが矮小になってしまう。

今年はいろんな変化があった。だから仕方ないところもある。これは慰めだが、実際そうだとも思う。家も職場も身分も時間も、考え方や対する相手も、本当にいろんな変化があった。そして移り変わっていくということの中で、以前のものが壊れていくということも切に感じた。どうしてそのままでいられないのだろう。いっそどうして完全に消えてなくなってくれないのだろう。過去というものはとても重い。いつでも重い。自分は自分を追いかけてくる過去からずっと逃げて生きている。死ぬまでそうやって生きるのかもしれない。過去から逃げるべく未来を創ってきたと言ってもいい。

しかし創り上げた今もやがて過去になるのだとすれば、この今もどこかで後悔の念を孕んでいるということになる。人生を思う。こんなに自分の人生というものが醜く、恨めしく、恥ずかしいと思うのは、自分だけだろうか。第三者はこれを誇張と見るだろうが、私の過去のすべてを洗いざらい白日に晒して、それでも誇張にすぎないと言われるならこんなに安心することもない。

やや話が感傷に傾きすぎた。しかし感傷は私の哲学の動機である。これが悲哀だと思っている。しかし悲哀を告白することが哲学でもない。哲学は学問である。そこは弁えているつもりである。

ともかく、今年のことは目を瞑ろう。大いに仕事はした。が、それは必ずしも実りらしい実りをなさなかった。それはそれで事実だと思う。問題は来年だ。

来年の忙しさ、というよりも校務の深刻さは、はっきり言ってどうにもならないし、どうにも読めない。その中で、いったいどれだけのことができるのか、自信は決してない。昨年だって、そういう期待と不安の中で、とにかくいろんな計画を立てたが、ものの数日であっけなく頓挫した。安定を得て研究が滞ることへの大きな不安は、就職する前からずっと感じていた。だからそれがどうにもならなかったということが、大きな棘になって自分の心に刺さっているわけだ。

哲学の研究は孤独でないとできないのだろうか。そんな気もする。だとすれば、家族も職場も研究にとっては有害である。しかし、本当にそうなのか。西田は家族団欒の中の日常に深い哲学を見た。私はそういう哲学者に心惹かれた。西田の日記を読み返して、何よりも心慰められる気がする。正しく前を向けさせられるという心地がする。人生問題の他に哲学はない。家族や職場の中で、人に揉まれて現在を生きる自分の生に哲学がなければならない。その徹底に自己の哲学を考えるのが、西田哲学の引き受け方であることは疑いようもない。その引き受けを基軸に、いわゆる学界の中での人生をよく考えてみなくてはならない。

学問は畢竟lifeの為なり、lifeが第一等の事なり、lifeなき学問は無用なり。急いで書物よむべからず。[17/74]

ここ最近、いつもテクニカルなことで悩んでいる。もっと奥底に入り込んでみなければならない。

 

牛歩に抗う

今日は授業も研究会もないため、休日にして家で休んだ。

数日前から咳が続いている。怠いとか熱っぽいとかそういうのがないので、とりあえずは問題ないが、たまに喉に来るようなタイプのひどい咳が出て辛い。

授業も研究も決してゆとりがあるとは言えないが、あまりゆっくり休めることもないため、思い切って療養した。休日は妻にも何かと気を遣う(これは自分のエゴな性分にすぎない)。なかなかない機会なので、よかったと思う。

 

こうしたたまの一人の休みに、つくづく環境が変われば考え方も変わるなと思う。亡き師匠は、就職してから思考のキレが鈍くなったとかそういうようなことを述べていたようだが、これは本当にそうかもしれない。というより、アカデミックな共同体のなかで、先端的な話をするということ自体が、だいぶ稀有な例なのだということを再認識する。現職では異分野の人との関わりばかりで、専門的な話はほとんどできない。専門の話をする機会が減ると、当然思考のキレは鈍くなったように感じる。なんとなく、保守的になる。

その分この一年では知識を培ったという感がある。研究に対して経済的に余裕ができていろんな本を買ったり、授業の関係上専門外のことを色々調べたりする機会が多かった。これはこれで本当に有難いことである。

それでも、執筆ということに関しての牛歩の如きは、なんとかならないものかと我ながら反省する。多分、これは思考のキレが鈍くなって、その分知識として何かを得ているということと無関係ではない。何かを切り捨て、生い茂る草をすばやくかき分けるような俊敏さ——それこそ前回書いたような、焦燥とは無縁のスピードが、いまは欠けている。何かを書くと同時に見えてくる背景のようなものがあって、それによっていくらか慎重にさせられる。

そうでなくとも、多方面に気を配るということは、進もうという意志に牽制をかけるものである。今は家族がいて、学生がいて、同僚がいて、研究者の仲間がいる。彼らを振り払って前に進むということはとても難しい。だが爆発的に書くには、それらを振りほどいて、前を見て、進むということがないといけない。

前回は速度の重要性に気づいたが、なぜそもそも愚鈍になっているのかという点にまで至らなかった。それは明らかに、充実した、幸せで有難いしがらみのせいなのだ。

 

時間は有限である。早めに切り上げて買い物をして帰る、困っている学生の対応をする、校務に従事する、授業準備に時間をかける。それはすべて、人への気遣いに基づいている。極端なことを言えば、これは自己疎外であって、この疎外によって得ているものと、失っているものがあるわけだ。

私がやっているのは、究極的には人間がいなくてもいい世界に至るまでの、現実というものの包括的な研究である。こう文字に起こしてみると、その難しさと自分の実力のあまりの不釣り合いに引け目を覚えざるを得ない。それでも、私はこれをやりたくて研究しているし、そこで難しさに怯むような自分でありたくはない。

 

どこかで牛歩に抗いたい。抗わなければならない。

「頭燃を払うが如く」ということを、どこかで生み出さなければならない。

そのためには、「あれもこれも」考えるのをどこかでやめなければならない。

焦燥とは無縁の、スピード

明日から早速後期の授業が始まる。

この上半期は、生活様式がガラッと変わって、色々適応に手間取った。あるいはその結果かもしれないが、ここ数週間で風邪を引いて寝込むということもあった。

 

総合的に見て自分の身の上に幸を感じる日々であることは間違いないが、それでもいくらか焦燥や不満が募る点もあり、これからの生活というものを今一度考えてみなければならないなと思う。

とにかく目下の仕事は依頼原稿と博士論文で、これが片付いたらやりたい研究がたくさんあるのだが、逆に片付けることができない自分の手際の悪さというものを見ていると、極めて個人的な意味での研究人生というのはあまり明るくない。自分が変わらなければならない面というのがあるように思う。

 

特に大きいのは時間感覚だろう。限られた時間の中でどのように仕事をしていくか、ということを、この半年は痛感するばかりだった。タイムスパンを定めてマルチタスクをこなすことに少しずつシフトしているが、それだけというわけでもいかない。

尊敬する先生は、圧倒的な知識量と語学能力、著作を展開しているわけであって、そういう姿に自分を少しでも近づけていくためには、ただ生きてこなすだけの仕事をするだけでは到底足りない。

ということを考えていて、ふと「ああ、そうか。速度だ」と思い立った。

 

一週間というルーティンをこなすスケジュールの先取の中では、労力というのは等分されがちである。とかくそこで「焦り」と結びつく速さを、自分は戒めることが多かった。焦っては行けない。焦ると労力を無駄にする。そうして焦らずにやることを、自分のブレーキにしていたところがあったわけだ。

 

焦燥とは無縁の、スピードを意識すること。

いくらかの加速度を伴うような思考で、仕事を進めること。

 

後期はこれをいくらか意識して、自分の仕事を進めていきたい。「所与に屈する」ということは自分の哲学の主題であるのに、この「速さ」に今まで盲目だったのは、どうにも情けない。

軌道に乗せるためのアクセルの踏み方を培うのが肝要だ。

 

分かり合えないことと芸術

前の記事を読み返して、我ながらよく描けているなと思った。自分は、誰に向けて書くでもなく、永遠に向けて、しかし外へ自分を描くということをするときが一番ものごとをちゃんと描けるような気がする。それは特定の個人に向けたメッセージではない。人間に当てられたメッセージであるかどうかも怪しい。しかし、それは文章であるからには、誰かに読まれることを欲している。不気味な有象無象に対してではなく。宇宙の姿を自然言語で描きたいのだろう。

 

自室で缶ビールを飲む。

唐揚げとオードブルをつまむ。パソコンに向かう。

 

結婚してからこういう過ごし方はめったにしなくなった。妻とご飯を食べるか、仕事の合間に研究室や食堂で食事をとるかばかりで、一人でパソコンに向かって晩酌するという機会自体がめっぽう減った。

 

家族ができると、詩的に物事を描く機会は失われていく。生活自体が幸福の絶対値になっていくからだ。

生活を超えたものの話は、あまりしない。なんとなく気恥ずかしいし、日常のどうでもいいことの報告だけで、なんとなく満ち足りた様な気にもなるから。

ふとタバコの匂いを懐かしんだり、星空を無窮に眺めたり、音楽を通じてその世界を一人占めにしたりするような、そういう独占的な鑑賞は、隣に気心の知れた人間がいる空間ではできない。それは常に人と分かち合われるものになってしまう。

「タバコなんでやめたん?」

「ああ、すごい綺麗。あそこにオリオン座ある」

「あの曲きいた?めっちゃいいよな」

こういうやりとりはそれとしていいものだし、絆というようなものを感じる。でも、タバコの匂いや星空や音楽は、残念ながら絆とは無縁であり得るし、絆よりももっともっと高尚な何かであり得る。

 

だから、別に家庭に不満があるという話をしたいわけでは決してない。

でも家庭は、往々にして社会的な役割の中で成立している。共働きでへとへとになっている中、どちらがどれだけ家事をするか。家事をする方が家族的であるし、その意味で社会における称賛の地位は高い。家族であろうとするとき、そこでの「役割」をこなすことは、内政的に度外視できない。

突き詰めて言えば、家族であろうとするとき、そこでの出来事はすべて「家族のもの」となる。買い物帰りに二人で見た夕景も、電車の中で面倒な客が騒いでいたことの共有も、すべて「家族のもの」として決済される。拡張されたプライベートは、もはやプライベートではないのに、プライベートという名前で上書きされている。

 

この「もはやプライベートではない」と言うときの「プライベート」の意味。ここに芸術の可能性がある。だから家族を大事にするということは、一般に芸術的な審美性を失うことであり得る。

 

このように考えてみると、そういうふうに鑑賞することができるというのは、「分かり合える他者がいない」ということが極めて重要な条件になっているのかもしれない。

タバコの匂いを懐かしむときには、私はそこに学生時代の多様な思い出を嗅ぐ。ライブハウスの喫煙所、飲み屋——あの頃はタバコを吸える飲み屋が普通にあった最後の時代だ、バイト終わり、深夜の散歩と感傷。そういうものが全部その匂いの中に秘められている。その全ては、決して他の誰かと共有できるものではない。

星空を見た時の感動も、多くの人にとってはただ綺麗を眺めること、ただ星座を答え合わせすることにすぎないのかもしれないが、私にとっては全宇宙が動いている事実の中に私という人間が生きて動いている、その自覚の末の感動なのである。パスカルの見たものがそこに流れ込む。誰が人間のmisèreを、星空を眺めてわかり合えるだろうか。音楽にしてもそうだ。誰のものにもならない、私にしか映り込んでいないものがあるからこそ、それはエモさを創る。

 

鑑賞それ自体が制作であるという意味において、鑑賞は芸術活動である。こうした鑑賞は、そのように映し出されたイデアを、外へ出すことへと我々を動かす。この文言が現に綴られているということが、そのようなイデアが表現として私の外へ出ていくポイエシスである。西田のポイエシス論にもそういう意味がなければならないと思っている。

 

 

先週記事を書いてから、体調がどんどん悪くなって、水曜に風邪で仕事を早退した。

その足で医者にかかると、幸いコロナもインフルも陰性だったが、帰宅して休んだらそのまま三日寝込む事態になってしまった。ようやく昨日ほぼ全快になり、今日は休日出勤した。

 

今朝、今度は妻が熱を出してしまった。明らかに私のが移ったのだろう。悪いことをした。早めに仕事を切り上げて帰宅し、色々済ませて寝かせた。それで今というわけだ。

 

この流れでこういう内容の記事を書くのは、なんとなく薄情な気がする。たまたまそういう気分になったから稿を起こした、それだけだ。別に誰かに分かってほしかったわけではない。共感してほしいわけではない。当然批判なんて御免だ。的外れもいいとこで、勘弁してほしい。これは「分かり合える他者がいない」から書けたのである。

 

本当は、酩酊にYoutubeでゆっくり曲をきいていて、なにかが見えた気がして起稿した。

書いているうちにそのなにかも忘れてしまった。

それは外へは出ていかなかった。そのまま私の中で消えていった。

それは無念だろうか、だとすれば私はあまりに淡白な気もする。ビールの酔いと現実の往来で、見られていないまでも、素通りされていったなにか。さらば。

イデアを見る

英雄ポロネーズで、だんだん目が冴えてくる。

ときどきこの時間の流れ自体が、どこかの誰かの記憶とつながるような気がする。

何の煩わしい喧騒も疑心もない生活。それは営まれるべき生活ではないが、瞬間として存在するような生活である。仲の良い友人も家族も何もかもが忘却されている、いやデリートされている中で、風景と匂い、瞬間としてだけ存在する生活。

振り返って思えば、これが芸術鑑賞なのでは?という気がする。しかし、別にそうである必要もないのかもしれない、ともすぐ思う。古典的なものと触れるということは、少なくとも通俗的な意味での現代というものからは解放されるということだ。それは逃避でもないし、装飾でもない。気がついたら、憂うような現実というものが別に存在しないような世界にすでに投げ込まれている。そこで、例えば明晰夢のように、ふと「現実」が目に入って、そこに儚さが生まれてくる。それでも、「現実」によって今そのように感じている恍惚が穢らわしいものになったりはしない。恍惚はそんなもので台無しになったりはしない。イデアは移ろう現象に支えられなければ存在し得ないような脆弱なものではないのだ。

 

昨日は日曜日なのに出勤して、色々と手を動かした。

それでもやはり休みの日に働くというのはいつもと違うことで、どうにも十分事を成したという感じがしないまま帰ることになった。

それで、平日のうちに済ませなければならない色々な用事があるから、今日は一日休みをとってみた。

妻を仕事に送り出し、簡単な家事を済ませ、散髪に行き、買い物をして雨に降られ、帰って昼食をとった。オフだからと思って気を抜いて、昼食をとったらしばらく寝てしまっていた。

 

それでもまだなんとなく眠い。洗濯物を片づけてから、仕事の連絡が入っているのに気がつく。それでふとメールを開いてみると、週明けだから仕事が色々舞い込んできている。しまったなァ、と思う。こんなに仕事が溜まるくらいなら、半日休にして午後から仕事に出るべきだったと後悔する。もう後の祭りだし、天気は悪くて気分もなんだか重い。また眠ることにした。

 

リストのラ・カンパネラとか、ドビュッシーの月の光とか、王道なピアノ曲が好きで、それを流しながら横になった。気持ちよく眠るけれど、身体の節々はなんとなく不快で、このまま身体が音に溶けてなくなれば良いのに、と思う。近頃また、目も悪く耳も遠くなってきた。物も見づらいし、音量も上げないと十分楽しめない。誰かに迷惑をかける前に、どこかで引き際を見定めて、死なないといけないのかもしれない。無論こんなこと、今考えるべきことでは決してない。しかし、人は永遠の事柄を忘れる。永遠を離れて、移りゆく世に浸って忙しく生きることが本当に大切である。老いと共にそのことも忘れてしまいそうな気がする。そのとき醜くなった自分に恥じることができるだろうか、あるいは年を重ねればよく思うように、あれは若い頃の理解の仕方だった、人生はそれだけでもない、ということを思うようになるのだろうか。それこそ、最近はそういうことを思わないでもない。私よりもずっと若い人たちを相手にしていて、自分にもそういう頃があったな、ということを醜く思うことが増えた。その醜さに開き直る、年を重ねて見えてくるものに真実を感じる、若い頃のものが間違いではないとはいえ、それは「十分ではない」と窘める。そこに、老害じみた自分の醜い正しさを思う。

 

それよりも、平日の昼間にこんなことを悠長に考えることのできる今の自分のあり方に、改めて幸福を感じる。ちょうど一年前の今日、今の勤務先の面接が予定されていた。それが直前にコロナになって、一度は破綻した。色々あって再度機会を貰い、そうして今の職にありつけた。このあたりのことは、適当に遡って読まれたい。(無論、読まなくてもよい。)

仕事をするということを、改めてしみじみ感じるし、人間として生きるということを、何度も思い直す。

もちろん今の特有の辛さもあるし、今後の心配も山積している。しかし、それは贅沢な悩みであって、少なくとも一年前の自分には、到底思い描くことのできなかった代物だ。

仕事中、職場から見える景色や自然を眺めるたびに、ああ、本当によかったな、といつも思う。これがいつまで続くのか、どのように変化するのか、もっとよくなるのか、それともこれが人生の最後の輝きになるのか、それは分からない。

ただ、多くの人や運命に恵まれていることだけは自分にとっては確かであるし、そこで感じている輝きがたとえ誰かにとって癇に障るものだったとしても——そういう可能性を、いつも自分は思わないではない——、それで今感じているこの輝きの価値が否定されるということは、無いような気もする。それ自体は一毫も否定されないと思う。そういう価値に泥を塗り、醜く引き摺り下ろそうとする人がどれだけいようとも。

 

現実の構造というものは、矛盾的自己同一である。それは価値否定を含む。西田はそこに「悪」を見る。しかし、価値否定というのも、単純な相対性や現象性によって引き起こされると考えられるなら、それは最初から価値らしい価値でもなかったのではないか、という気もする。価値否定というのは、もっとニュートラルな意味を持っていなければならない。つまり、永遠の価値でさえも、それの前ではあまりに脆く崩れ去ってしまうような、そういう否定性を意味していなければならない。矛盾的自己同一というのは、そういう意味での価値否定の意味を持っていなければならないと思う。単にある一つの価値を相対化して塗り替えてみたりするような否定性は、永遠の価値というものを最初から永遠として捉えていないのではないか。

だからこそ、イデアというものをもっと真剣に考えてみなければならない。これも一つの「永遠」を気取った——すなわち簡単に塗り替えてしまえるような——くだらない主張にすぎないのかもしれない。多くの人が存在する中で、突出して目だとうとするある一つの杭にすぎないと思われるのかもしれない。だが少なくとも私は、これが単なる一個人的な思想の表明でもないということを自覚的に確信している(だとしても、人はこの確信自体を一検体的にしか見ないかもしれないが)。もっとも、その確信こそがイデアの正体なのかもしれない。その確信も、矛盾的自己同一の現実の前には、あまりに脆く無へ消えていくのだから(だから矛盾的自己同一というのは、まったき現実なのであり、現実という言葉の重みを引き受ける論理であり得る)。

 

昔から私は、移ろいの中で永遠というものを見ようとしていたような気がする。山中の田舎で屋根に登って雲を見たり、誰もいない画廊でいつまでも同じ絵を眺めているのが好きだった。それは別に外へ向けての飾り立てではなかった。むしろ誰も来ないでほしかった。ずっと一人でよかった。

けれども、そこで一人で味わったものを独り占めしていられるほど、私の器は大きいものではなかった。感動は、すぐに私から出ていきたがる。私はよく人に話した。

 

この拙い記事も、結局そういう類のものなのかもしれない。私は誰かに話したい。が、別に私の話として聞かなくていい。学者と呼ばれる身分になっても、やっていることは変わらない気がする。