古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

西田、田辺と下村の間で思うこと

連日原稿の修正やテストの採点、成績処理、大学入試の対策、授業準備、研究費の申請書などで落ち着かなかった。ようやく一息ついて(正確にはまだ全然一息ついてないが)、午前の研究をする時間を得た。それでいつも通りフッサールと初期シェリングヘーゲルの研究をしようと思ったのだが、フッサールをほんの少し読んだ段階でどうも精力が尽きてしまった。それでなんとなく気分を変えて、下村の初期論文にでも少し着手してみようかなという気になった。

 

下村寅太郎著作集』は正直に言って使いにくいなと感じる面も多い。田辺のように初期以来の論文が配列的に編纂された「研究対象の基礎文献」ということが第一義的ではないし、生前から刊行がなされたという意味で若干の「自己満足」を匂わせるところがある。ケチをつける感じになってしまうが、下村という人間からそういう気配が一切ないとは断言できない。むしろ所々にそういう気風が漏れ出ているような気もする(歴史的文化人に対する凡庸な個人の感想である)。

 

下村という人がどういう人だったのかということについては、雑談の中で耳にする断片からはよく分からないことが多い。実際下村についてのまとまった研究者がいないのだから、ほとんどの場合はみんなイメージとかで語っているに過ぎないというのが実情なのだろう。自分としては、『西田幾多郎全集』の編纂に携わったイメージなどからして、他の編纂者や関係者に比べてよっぽど精密で文献学的な距離感を保って論じているような気風を感じていたから、それなりに信用してもいた。自分の未開拓な専門についての数少ない先駆者であり、西田の著作の中で『自覚に於ける直観と反省』の意義などを評価していたところなどから贔屓目で見ていたところもあったかもしれない。

 

しかし実際に下村の書いたものを自分で紐解いてみると、案外面白味がない。というより、「哲学」がない。徹底的な掘り下げ、根本的な批判というものが、どこか足りないような気がする。これはある意味下村自身自認していたところで、たしかどこかに書いてあったと思うが、下村は自らをhistrian(歴史家)としてむしろ自称していたと思う*1。このことを逆手に西田、田辺に対して批判的な態度をとっていた面も垣間見えるくらいである*2

重要なのはこのとき「歴史家」(historian)とはいったい何を意味するのかということなのだが、下村の数理哲学を考えると、初期からそういう問題に隣接するような構えがないわけではないということに気づく。

今しがた読んでいて思ったのは、1932年に『哲学研究』に発表された「数理哲学の一指針」で下村が数学の基礎づけについて既に公理主義という性格に限定して問題を考えようとしていたところに、既に下村の「歴史主義」があるのではないか、というようなことである。下村が次のように述べている箇所がある。

「今日の数学」は形式主義的Axiomatik〔公理主義〕である。数学は形式主義的Axiomatikになった〔「なった」に傍点〕。数学はAxiomatikとなることによって以前の数学と区別される。むしろ、数学はAxiomatikとなることによって独立した〔「独立」に傍点〕。すべての今日の数学の基礎に対する考察はこの観点よりなされねばならぬ。それによって始めて今日の数学の概念や方法の整合的把握が可能となる。*3

下村自身が直後に「このDogmaの導出」という表現を用いていることにいろいろと違和感があるが、ともかく下村の焦点がこうしたAxiomatikの特徴にあったことは、「数理哲学」的に見て穏当であるし、納得できないわけではない。このとき「今日の数学」が強調されているところに歴史主義という側面が当然読み込まれ得るわけで、初期西田や田辺の基礎づけの問題とともに新カント学派的な基礎づけの意図は既に一定度外視され、あくまで進展する数学に追従しそこに競うような問題設定がなされているということは言い得ると思う。そうした問題は、なるほど歴史的なものを射程に含めた展開になるが、西田的な観点から考えてみれば、やはり所与の問題に固執ないし拘泥してしまっているような感がある。「すべての今日の数学の基礎に対する考察は」という文言一つとってみても、下村の態度に関していろいろな含意が読み取れて面白い。

しかし肝心のそうした限定的な射程での取り扱いは、西田や田辺の数理哲学を念頭に置いた上で考えると面白味がない。それは「今日の数学」を前提にせざるを得ない。哲学的主張にハイデガーが持ち込まれる際に特に自分が違和感をもつところだが、所謂「被投性」(Geworfenheit)や「負課」の考え方にはなお掘り下げるべき点があるように思える。普通多くの人はそこに環境的制約、所与というものを読み込み、人間存在の運命論や有限論につなげていくわけだが、自分としてはもう少しそのあたりは深く考えてみないといけないと思う。結局この問題が言い回しの変化による心理主義的所与の亡霊の再来なら、哲学は再び19世紀前半に逆行しているということになるからだ(もちろんまったく同じというわけではないにせよ)。

そういう理由で、数学の問題を考える際にも歴史主義にはなお一つ問題にしたいところがある(これは田辺の『数理の歴史主義展開』についても一定考えてみたいことである)。

 

下村のように西田についても田辺についても全集の編纂などを通して多くの情報を持っていた人物で、しかも数理哲学に理解のあった哲学者が、なぜ初期の数学的関心に紙幅を割こうとしなかったのかというのは、長らく素朴な疑問だった。自分の浅はかな推測だが、やはり下村も常識的なレベルでしかものを考えられなかったのだろうか。常識的なものの根底にかえってそこから常識に戻るということがなかったのだろうか。下村はフィロロジカルで、「学者」として大いに尊敬すべき人だと思うが、やはり本人の自覚通り「哲学者」として評価するのには難しい側面があるな、と思う。

*1:今確認した限りでは、竹田篤志が「〔……〕「哲学者」としての自己のあり方を"historian"であると自覚し、〔……〕」というようなことを述べている(『下村寅太郎著作集』第13巻、みすず書房、1999年、p. 670)。

*2:例えば『炉辺空語』というノートに1975年6月8日づけで「西田先生も田辺先生もlogicianである。歴史的senseは稀薄である」という記述が見られる(同上、p. 565)。

*3:下村寅太郎著作集』第11巻、みすず書房、1997年、p. 7。