古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

原因と責任——無自覚の科学主義

自分の研究と併せて、多くの人に知ってもらいたい、考えてもらいたいことについて書いてみた。長い叙述につきあいきれないという方は、「原因に責任を負わせるということ」だけでも読んでいただけたらと思う。

日本学術会議によせて

先日、親しい知人や友人との関係で用いているTwitterのアカウント(鍵垢)で、どばっと愚痴をこぼしてしまった。

ことの発端は、今話題になっている日本学術会議の任命拒否問題である。日本学術会議のメンバーに選ばれなかった6人の研究者のうち、一人が自分にとって極めて身近な先生だった。その先生は自分の修士論文の諮問を担当してくださった方であり、今自分が準備をしている博士論文の副査もお願いするかもしれないような関係にある。自分のことを知っている人には、具体的に誰なのかということはこれらの情報で推測できるはずなので、これ以上は言わない。とにかくまずこの事件は、「自分の活動圏内で生じている」という強い感覚を伴って受容されたわけである。

報道でもよく言われていることだが、傾向としてこの6人は「文系」の研究者という点と「反体制的」という点で共通している。どちらにせよこれらの理由は任命責任を果たさない十分な根拠にはなり得ないものであるわけだが、自分はまず前者の方でかねてから抱いていた不満を、できるだけ「アカデミックな界隈で生きていない知人」にも知っておいてほしいと思って一昨日Twitterに連投した。それは「文系の研究者は役に立たない研究をしている」という通念に対する誤解を解くためでもあった。以下に貼り付けておく。

わたしが学部1年のときに、人文学・教育学の縮小化は大学改革の一環として目に見える形で実行されました。自分の生きてる半径50m圏内のことしか考えられない人からすると、それらは「役に立たない学問」らしいです。

逆に問いたいくらいです。「役に立つ」とはどういうことなのか。

例えば「うつ病は本当に病なのか?」となおも問うことができる余地が、我々には残されているわけですよ。それは社会的歴史的に形成されているものではないのか、つまり、「うつ」になるくらい辛い思いをするように「強いる」社会構造や歴史的要因に我々は日々関与しているんじゃないか。

我々は事物の原因を「物質」に還元したがる傾向をもっています。病気の原因やしんどさの原因を、ホルモンや神経系などの物質的説明に求めようとする。それは医術の仕事であり「科学」的態度です。でも「今感じているこのしんどさ」はどこまで「物質」に還元できるのか、という問題が常に残るわけです。

本当にうつ病の原因が物質性に還元されたとして、投薬や電気信号の操作で「うつ病」が治ったと言っていいのか、という問題があるわけです。それは結局「自分が活動するにある程度支障がない」という「自分の目に見える範囲の有効性」(=役に立つ)に自分の視野を限定してるだけなんじゃないか、と。

こういうことを続けていけば、ポルノグラフティが歌ったように人間はまもなくロボットになれるわけですよ。傷ついたら取り替えるだけ。消耗されるだけ。「使えなくなったもの」は廃棄するだけ。実際精神病で社会的に使い物にならなくなったら、我々は自分の視野の外にそれを置こうとするわけですよ。

わたしが言いたいのは、そういう風に「自分の見えている景色の外に「役に立つもの」以外を全て廃棄していく」我々の「思考」それ自体が、もっとちゃんと反省されないといけないということなんです。それを廃棄とすら思わず、いつか誰かが回収してくれる生ゴミのように、それを視野外に置いていくこと。

ある意味アンパンマンの新しい顔だけが注目されるように、廃棄されたもの、用済みなもの、特に役には立たないものを「自分の目の届かないところ」に置くことで、我々はこの令和の時代を形成しつつあるわけです。つまり、いつかは自分が廃棄の対象になる。そういう時代を自分でつくっていっている。

そういう問題を、「役に立つ」実学はどれだけ考えられますか。どれだけの視野と背景を持って考えられますか。人間の思想のマクロなレベルとミクロなレベル、その形成史、解釈、論理を超える感情、情動、言語、概念その他もろもろの要素を専門に研究する「人文学」なしで、どれだけやれるんですか。 

 

今見返すと飛躍や問題のズレが目立つ粗雑な展開だが、要するに言いたいことは「物質的原因を捕捉していく典型的な科学的研究だけが「研究」(しかも「役に立つ有益な研究」、いわゆる「実学」)とされ、そうではない対象を扱う哲学、思想、歴史学、文学、言語学といった人文学研究が圧倒的に軽視されている現状にNOを唱える」ことだった。

そもそも「実学」というその実曖昧な概念によって、個々人の研究を素人が査定すること自体に烏滸がましさがあるわけだが、「でも人文学って何やってるの?」とか「それってどんな役に立つの?」という疑問自体は、おそらく広く感じられているのではないかと思う。

だから敢えて「科学研究」の土俵で行われるような事柄に対して、例を挙げて説明を試みた。それが「うつ病」についての例だった。

世界の立ち現れそれ自体は「物質」で説明できない

最初にはっきり断っておきたいが、私は「うつ病は精神的なものだ」という主張をしたいわけではない。うつ病」を「物質性」に完全に還元できるかという点を疑っているだけである。この点を考えるために、フランスの哲学者アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』の議論を使うことにしよう。

ベルクソンはこの著作で、伝統的に問題にされてきた心身二元論に正面から取り組んでいる。簡単にいえば「世界はものでできているのか、それとも心でできているのか」という問題である。

考えてみてほしい、世界は「物質」でできているのだろうか?

多くの人がまずはそう思うかもしれない。我々はものを使って生活しているし、ものを食べて、ものを排泄して、ものとの関わりの中で生きている。これは十分認められなければならないだろう。しかし、すべてが「物質」なのだろうか?

我々にとって最も身近な、ある意味で特殊な物質、それは「身体」である。我々は身体を通じてものを知覚する。瞼を閉じればものは見えなくなるが、それをやめれば再び世界が拓けてくる。手で触れ、音を感じ、匂いを嗅ぐことができる。そういう仕方で我々に現れるものを、ベルクソンは「イマージュ image」と呼ぶ(「イメージ」のフランス語にあたるが、ベルクソンはまずは客観的に実在するものそれ自体の意味で用いている)。

重要なのは、我々の身体それ自体もイマージュであるということだ。我々の身体は物理的に傷つけば出血するし、神経が切れればその部分の感覚は抹消する。脳の疾患によって身体機構に障害が出る事例を我々はよく知っている。身体、神経、脳はすべてイマージュである。

では、我々があれこれものを考えるときに映している事柄(哲学的には一般に「表象」と呼ぶ)は、すべてそれらのイマージュによって創り出されるのだろうか?例えば神経系で説明しようとする生理学者は次のように説明するかもしれない。神経系の遠心性の運動、つまり中枢から末端へ働くような伝達は体全体、あるいは手や足といったその一部分の位置移動を引き起こすものであり、それに対して求心性の運動、つまり末端から受け取ったものを中枢に運ぶ運動は、外的世界の表象を生まれされる、と。そうなると、外的世界というものが我々に現れるための条件は、このような神経系だということになる。しかし本当にそれだけなのだろうか。

ベルクソンは次のように言う。

脳のほうが物質界の部分なのであって、物質界が脳の部分をなしているわけではない。物質界と呼ばれているイマージュを抹消してしまえば、あなたはそれとともに、その部分たる脳も、脳内の振動も、すべてないことにしてしまう。反対に、脳とその振動という二つのイマージュが消えたと仮定しても、そもそもの仮定からして、あなたが消したのはこの二つだけ、つまりはごく些細なもの、広大無辺な画面内の取るに足らない細部だけである。画面全体、つまり宇宙のほうは、すべてそのまま存在し続けている。脳のほうをイマージュ全体の条件にするというのは、まさに自己矛盾を犯すことである。そもそもの仮定から言って、脳はイマージュ全体の中の一部分なのであるから。したがって、神経も神経中枢も、宇宙のイマージュを成り立たせる条件になるわけがないのだ。(アンリ・ベルクソン物質と記憶』杉山直樹訳、講談社学術文庫、2019、p. 24)

 

ベルクソンは、「脳や神経が物質界(=外的世界)の表象を生み出す」ということはあり得ないと言う。なぜならそもそも脳や神経がそもそも物質界においてあるものだから、つまりイマージュだからである。宇宙というイマージュ全体の中に身体イマージュは含まれている。ゆえにこの身体が世界を生み出すということは考えられない。そうなると、我々の表象は物理的には説明できないということになる。物質による説明では尽くせない部分が必ず出てくる。世界が我々に対してこのように立ち現れてくること、そのこと自体は、物質のみによって完全に説明することはできないのである。 

原因/責任を措定する科学主義

しかし科学主義はその完全な説明を目指している。科学的に分析していけば、究極的には世界の原因が物質的なものであることにたどり着けると信じている人は少なくない。そういう立場からすれば、精神的な動きもすべて物質運動に還元されると考えられるのだろう。しかしそれは「そのようにものごとを捉え、そのように世界像を形成している思考それ自体」に十分な目が向けられていないという意味で、不十分である。

現代人にもっぱら足りていないのは、この「自分の考えそれ自体が何に基づくのか(しかもこの答えは物質的なものへ還元することとは別の仕方でなされなければならない)」という問いである。この問いの扱いには、原理的に科学主義とは別の仕方が要請されている。その役割を担うのが、広く言って人文学なのである。

多くの人はこのような問いは学者が問うべきで、一般人はそれを消費者的な観点から受益すればよいという立場で考えているかもしれない。もちろんそれはおよそ学者の仕事ではある。しかしそもそもそのような仕事が「役に立ち得る」のは、あくまでそれが個々人において(受益ではない仕方で)引き受けられるときに限る。

例えば「科学主義」は、ものごとの原因を安易に「物質」に還元する傾向を我々に促している。なにかあれば「〇〇のせいだ」と容易に対象(それはものでも概念でも人でもよい)を責めるような心的傾向に、我々の精神を溺れさせている。我々は当然の権利のように、「原因」を一つのものに収束させ、そこに全ての責任を負わせようとする。それが過剰になれば、世界はどんどん生きづらくなっていく。その生きづらさの原因を、また物質に還元しようとする。我々の多くは、このように物質への還元を事実的に盲信しているのであり、その意味で「科学主義」というイデオロギーに支配されているのである。

原因に責任を負わせるということ

ちょうど今朝方、以下のようなツイートが流れてきた。

このツイートに対する反応は一義的には定められないが、「ウイルスなんだなぁ」という仕方で我々の「生きづらさ」を物質的原因に還元しようとすることで、我々が「安心」を欲しているということだけは確実に指摘できる。

実際この専門家はこのような研究を発表することで、うつ病は「人」や「心」といった主観的、意志的な問題ではなく、ウイルスという「物質的な原因」に基づくものと考えて、我々の精神的不安を幾分和らげようという効果を狙っている。うつ病は「その人の心の弱さなどではない」という仕方で、うまく切り離すこと。これ自体は専門家の善意だろう*1

しかしそもそもうつ病が当人にとって問題となるのは、「ウイルスが潜伏しているから」ではなく「精神的に参ってしまっている状況にあるから」である。うまく身体が動かせない、無気力になってしまう、絶望してしまう、普通の活動がままならない、といった自分にとって不都合な状況があるからこそ「うつ病」という診断が下されるはずである。自分の中に「ウイルスが潜伏している」という理由が強固なものとして受け入れられるなら、そもそも我々の中には自分の知覚し得ない無数の有機体が存在しているのであるから、我々の多くはほとんどの場合何らかの意味で「汚染」されていることになる。ゆえに「ウイルス」という物質的な原因の措定は、決して「うつ病であること」の核心として処理することはできない。

物質的な原因の措定は、自他に境界を引くことである。「ウイルスは私ではない」「ウイルスが害をもたらす」「ウイルスが自分の中にいなければ、私は正常である」という仕方で、「私」の浄化を図るとともに「ウイルス」にあらゆる負の責任を課する。これが「ウイルス」ではなく、例えば「特定の人物」であったり「物体」であったり「イデオロギー」であったりすれば、我々がいかに日常的に他なるものに対して責任を負わせて自己の正常を無意識に確保しているか、よくわかるだろう。

「ウイルス」に原因を還元するというやり方は、非人格的なものを「敵」として認定するという意味で、人格的なものを「敵」にするよりもよっぽど道徳的である。昨今のコロナ・ウイルスの問題も「元々ウイルスを広げた中国のせいだ」と言ってみたり「夜の街を歩き回る馬鹿な若者のせいだ」と言ってみたりする言説が溢れたわけだが、そういったものに責任を帰する中で我々がおこなっているのは、結局は自己の「安心」を得ること、自分が「正常」であることの確かめである(これは大抵ほとんど意識されず、また本当に「正常」であるかどうかを閲していないという意味で、基礎づけのない浅い確認に過ぎない)。その意味では、具体的な国家や特定の集団、個人といった人格に関与するものではない「ウイルス」に責任を負わせておくということは、我々の社会運営という観点からみて、最も倫理的であり、また合理的である。

しかしそれはなおも「科学主義」なのだ。「自分ではない何か」に責任を負ってもらうことで自分は救われるというのは、スケープゴートである。しかし我々はあまりに科学主義に傾倒しているせいで、それ以外の仕方で「自己の安心」を手に入れる方法を知らない。だからますます我々はこの科学主義的な方法にのっとって「自己の安心」を手に入れようとするし、それが唯一の正しい道だと信じるようになる。「自己の安心」のために多少の犠牲はやむなし、という開き直りへと繋がっていく。それは延いてはリバタリアニズムへと、つまりトランプ大統領シリコンバレーの資本家の論理に結実していくと考えていいだろう。

もちろん、自分は「ウイルスがうつ病の原因であるなんてあり得ない」と主張しているわけではない。すでにベルクソンを引いたように、我々はやはり物質界に属する我々の身体を通じてこの現実の世界を生きている。我々は純粋な知覚の世界において物質に直に触れている。問題にしたいことは、「原因はどれなのか」ではなく「原因を立てることで我々が欲しがっているものとはなんなのか」なのである。——そしてそれがつまり、「安心」なのだ。

科学主義と人文学

この事実は科学の範囲内では指摘し難い。それは人文学の仕事である。つまり、このような思考全体を引き受けて問題を考えているのが人文学という研究領域なのである。ゆえに人文学は「人文科学」ではない。科学的な思考を要所に取り入れつつも(この面が強調されるとき、人文学は「人文科学」と称されてもよい)、根本的に科学的な事物の措定それ自体を検討することを射程に含んでいる。

自分の博士論文のテーマにはこの問題が含まれている。今はまだ詳述できないが、我々はある対象や概念を実体的に形成することによって、却って翻弄され、惑わされているということがある。「ウイルスが原因だ」「若者が原因だ」のような仕方で主語として立てられた事物は、我々の思考判断として定立されたにもかかわらず、しばしば我々の以降の思考に影響を及ぼし、蝕み、飲み込んでいく。我々は主語的なものに自己を喰われていく。自分はそれこそが、我々の多くの「迷い」や「苦悩」の根源であるように捉えている。「うつ病」で苦しむ人々にとって本当に必要なのは、科学主義的なスケープゴートではないはずだ。むしろそうした「迷い」や「苦悩」を共に直視すること、その現場から思考を始めなければならないのではないか。

 

以上の叙述は、明らかにリベラルな啓蒙めいたものに傾いていて、あまり宜しくはないなと我ながら思う。自分は知識をひけらかしたいのでもなければ、科学主義を打倒したいわけでもない。ただ、我々があまりに無自覚に汚染されている凝り固まった「思考」に一滴の油を差すことができれば、それは人文学研究者としての自分がなし得る、社会への有効な還元になるのではないかという動機で綴ったにすぎない。

 

 

 

*1:この問題とのアナロジーで私が考えてしまうのは、「禁煙外来」という治療認識の拡大である。喫煙が害悪をもたらすという認識から、喫煙者は多くの攻撃を受けてきた。しかしそれが「治療の対象」となることによって、幾分かその攻撃は緩和される。責任が「喫煙者」ではなく「喫煙に際して含まれる化学物質」にすり替えられるからである。しかしそれらはいずれもまったく喫煙者の内的必然的事情を考慮していない。後者に至っても相変わらずである。このような仕方でマイノリティを「治療対象」として捉える医療的善意は、人によってはまったく当て嵌まらないのであり、そのことにもっと注意が払われなければならない。この件はここで詳述した「科学主義」的に原因を措定する無自覚的な思考に深く関わっている。