古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

淡々、回想、郷愁

今日も朝からコーヘン。今日は無限判断の生成について。

村上訳では引用符が削除されているせいで、何を言ってるのか正直全然わからなかったのだが、原文を見るにどうやらアリストテレスの De Interpretatione の話題らしい。と思って、手持ちの『命題論』を確認して、ようやく意味が落ち着いた。μὴ に対応する Nichts について村上は、「矛盾の判断」との差異を強調する。「Nichts の判断」は根源の判断とされ、「所謂、しかしそのように理解されてはならないような Nichts」が「操作手段」Operationsmittel として断定される。その「操作手段」は「問いにおいて立てられている〔(問題となっているところの)〕その都度の或るものを、その根源においてかつそれを通じて、はじめて本来的に生産や規定へともたらすための操作手段」である*1。岡野留次郎でもそうだし、まぁ当然西田田辺においても共有されているわけだが、この点がマ派の根本的な立場になる。村上に従って言えば、これと Negation としての Nicht は区別されないといけない。こちらはむしろ「矛盾の判断」において展開されるような否定性の問題に属する、というわけだ。カントの判断表で言えば、コーヘンは無限判断を最初において、その後で肯定、否定をおく、という風に(我ながらあまりにシンプルすぎる理解かもしれないが)考えると言ってもいいかもしれない。まぁ実際コーヘンは「量」ではなく「質」から問題にするべきだ、というような考えを持っていたわけだし、そういう重ね合わせの理解はあながち間違ってもいないように思う*2。村上はこのように考えて、Nichts が敢えて名詞的に使用されたことについて「コーヘンの体系的関心」がその理由だと述べている。体系的配当と考えるのは、なるほどな、と思う。いずれにせよ、このあたりをもう少しちゃんと整理できれば、今年度の総括はだいぶ進展する。だがそれだけでもまずい。そろそろ12月発表に向けて対応関係を再読しないといけない。コーヘンばっかやってる場合でもないのだ。やらんといけんのだが。くそう。

 

そんなこんなで淡々と為すべき仕事を為す。幸い今週はまだ緩い。第一級を終わらせつつ、対応関係確認しながら原稿書き出して、それで出版物のお仕事も少しずつ進めないとまずい。とはいえ、あんまり背負ってるものを数え出すのもよくない。数多くの仕事を適切にこなすコツは、背負っているものを数えすぎないことだ。

今日は遠方の親友が生放送でライブをしていたのを見た。ライブが終わった後、冷風を感じながら静かに仲間と煙草を吸ったり、酒を飲んだりした時間を思い出す。あの時間の替え難さがある。

今抱えているものを全部捨てて、評価や蓄積が満たされる場所から解き放たれて、またああいうシーンで生きていたいと、割と頻繁に思う。が、おそらくそれはほとんど叶わない。それが自分の「郷愁」だ。あれから随分時間も経ってしまった。教壇に立っていっちょまえなことを偉そうに唱えたり、両脇に本を積み上げて何をやっているのかよく分からないことを毎日繰り返したり、食が楽しみになってきたり、なんだかこうなってしまっているのは哀しい。自分は昔はどうやって生きていたのだろう。もうだいぶ忘れてしまった気がする。 

 

為すべきこと。

*1:Hermann Cohen, Logik der reinen Erkenntnis, in Werke, Bd. 6, Georg Olms Verlag, 1977, S. 89

*2:例えば「この最初の三つの判断の種類〔根源の判断、同一性の判断、矛盾の判断〕は、これまで用いられてきた「質」Qualität の名の下に総括され得るだろう」(ibid., S. 118)とか、「質の前にはいかなる物体もいかなる対象もいかなる存在も存在しない」(ibid., S. 120)とか。