古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

成長

ひとまず戻ってきて、特に恐ろしいことは起こっていない。ただ、宿泊した夜はうなされて眠れなくてほとほとまいった。その後も発熱を伴わない慢性的なだるさが続いている。新年度だというのに、幸先が悪い。心身も弱る。

 

一と多。普遍と個別。この結合をどのように考えるかということを、自分の課題としても思う。歴史性によって考えようとする、ということに最近は同意もするようになった。具体的なところから出立しようとするなら、そうでなければならない。しかし、一つの鋭利な普遍性が成立し得るということそのこと自体もまた、十全に考えられなければならない。それは単なる歴史性に基づいては考えられない。いわゆる具体性というものを欠くというところに、それの意義がなければならない。歴史性の否定というところがなければならない。

 

人の成長ということも考えなければならない。成長ということがいかなることであるかを考えなければならない。それは潜勢現勢で語ることができないものであるのは言うまでもない。血縁的潜在性(所謂「遺伝」)に不十分さがあるということは既に広く認められるところであるが、それが環境的潜在性というア・ポステリオリな潜勢に変容しただけであれば、なおも我々は成長を潜勢現勢で語っているにすぎない。それを意味的に基礎づけるものは目的論に収束すると思う。弁証法と批判哲学の境界線は目的論である。目的論が目的を棄てるところに弁証法がある(その意味で、ヘーゲル弁証法は一面において目的論的であって弁証法として不十分であるという見方もできる)。目的なき目的もまた目的論である。しかし弁証法の内部には目的論が占める位置がなければならない。弁証法は決して目的論ではないにせよ、目的論が目的論として成立するところは弁証法においてでなければならない。このようにして、歴史的世界の弁証法的構造において所謂通俗的社会的コンテクストが活かされるのでなければならない。そうでなければ、現実の世界の抽象的限定面といったところで、我々は具体的現実の意義を理解することはできない。特に現代は、具体的現実という術語を各々の抽象的限定に対して用いるばかりなのだから、我々はこの関係をよく考えてみなくてはならない。

 

この関係とそのまま一致するわけではないにせよ、成長段階においては、抽象的限定こそが真実である。未熟者にとっての真実は抽象的限定でなければならない。自我の目覚め始めた幼児に世界の意義を説くことはできない。彼にとっては母親の周辺こそが世界である。しかし、それは具体的世界でありながら、具体的世界ではないと言わなければならない。幼児にとって幼児が生き抜くための母親の生活を支える経済的基盤や社会的保障は具体的世界ではないが、だからと言って経済や社会が具体的世界ではないとは言われない。むしろ「幼児にとっての」具体性の尺度がありつつ、それとは必ずしも矛盾しないはずだという信念のもとで経済や社会の具体性という一層本質的な具体性が予想される。この場合、我々は「Xにとっての」という仕方で、ソフィスト相対主義に立つ可能性がある。悪しき歴史主義はこの相対性を根城とする。基礎づけを経ていない「多様性」を唱導するあらゆる言説は、この「Xにとっての」という尺度でそのXを懐柔しつつ、裏面にそれとは裏腹の可能性を常に予想している。現代は再びソフィストの時代となる。

 

抽象的限定が真であるということをよく考える必要がある。具体的普遍の思想の持ち主は、抽象的限定を軽視する傾向にあるが、むしろ真なるものとして限定されるものは常に抽象的なものであって、真偽の取り糺されるべき場所は限定された一般者においてである。ともすれば、具体的普遍それ自身が「真」であるということはまったく不可解でなければならない。具体的普遍の思想は自己矛盾的である。真であるとは言われない。また、だからと言って偽であるとも言われない。そういう意味で、真偽を基準とする問題の射程外にあって、真偽を基準とする問題こそが具体的現実であるところの所謂通俗的社会的コンテクストにおいては、それはまったく無為でなければならない。哲学が、まったく実生活に対して無益な所以である。

 

ここ数日、そういうことをよく考える。哲学は本当に社会の役に立たない。哲学は無力である。しかしそれが単なる「懺悔」なら、西田も述べたように「後悔」にすぎない。それ自体通俗的社会的であるよりほかない。無論、ここに筆者の哲学的素養の不十分さこそが社会の役に立たない無力さの原因であって、それを哲学一般とすり替えるべきでないという批判は十分あり得るだろう。それについても否定はしない。しかしとりもなおさず我々が問題にしているのは具体的なものと抽象的なものとの関係であり、この隘路の打開を講じ得る人がいるというなら、ぜひともその考えを聞かせて欲しいと思う。