古都の道場 西向き間借り

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論理と倫理

最近、倫理的なものや社会的なものについて考える機会が多く、それらに対してどういう態度をとるべきか、ということをおぼろげに考えている。

身近な話で言えば、来年度から倫理の専任になるという件がある。倫理学の専門家ではないから、これからディシプリンとしてのいわゆる倫理学をもっと勉強していく必要がある。Applied Ethics、つまり応用倫理学も講じなければならず、今まで自分がやってきた分野にはない質感に多少の戸惑いがある。そうした影響下で、昨今chatGPTなどが流行っていることもあり、AIに関する倫理問題などへも少しずつコミットし始めている。

結局こういう問題は、教育と法整備、規範的な問題に還元される傾向にある。なにをすべきであって、なにをすべきでないかを教育し、その公的なジャッジを制度によって確立するという、そういう形式になっている。そして、それは当然のことながら我々がそれにおいて生きるための一つのフィクションであり、世界が現にどう在るかを問題にする場合とは次元を異にしている。

西田がものを作る、ポイエシスと言うとき、当然そこには社会制度的なものも含まれていると考え得る。作った社会の中で作られて生きる。それは確かに社会的に生きる上での基本構造となる。しかし社会が作られたものである以上、それは最終根拠ではなく、むしろさらに根拠として問い詰められるべきものが存することを告げている。

技術者であれ芸術家であれ、ものを作る人間がものを作るときに重要なのは、そのものとなって見ることである。そこでは社会的なものはひとまず度外視されなければならない。その論理的根拠はまた後日明白にすべき課題として、社会的なものを視野に収めながらものを作っても、それは大して面白いものにはならない。人を衝き動かすような、そういう動力を秘め難い。規範がそこにストッパーをかけるようなものでしかあり得ないのだとすれば、そのような規範が自由論者の立場から忌避されることにも正当性があるのであり、むしろ規範論者はそのことを積極的に受け止めなければならない。そこで規範を振りかざしても、自由は止められない。

このとき、論理はむしろ規範よりも自由と結託するように思われる。多くの人がそこに異論を唱えるかもしれない。しかし科学的探究がしばしば社会的規範という矩を越えていくように、真偽を求める運動は既存の体系よりも自在である。学的才能に秀でる人間がしばしば社会性の欠落を指摘されるのは、社会性を度外視してものを見るところにあると考えることができる。

そう考えてみると、学校教育というものもなんだかよく分からなくなってくる。表向きには学問への通路であるはずなのに、どちらかというと社会規範の周知が主となるという事態が、学校を不思議な空間にしているのかもしれない。無論、学的探究において社会性は軽んじられてしかると言うつもりはないし、学的探究が一方で社会性と結託することは、必ず矛盾するわけでもない。とはいえ、やはり社会性が最終的な根拠に仕立て上げられるとき、そこに(真理と冥合しようとする場合に)馴染めないものを抱えるのは、指摘しておくべき事実であるようにも思える。

こうなってくると、社会的なものというのをどう考えるべきなのか、いよいよよく分からなくなってくる。論理と倫理はそう簡単に帰一しない。このあたり、田辺はよく悩んだことだろう。

まずは論理を考えるのが、目下の仕事である。

しかしその後で、今一度倫理(その虚構性と当為)を考えてみる必要もある。