古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

個と個体、身体

試みにまずライプニッツから始めよう。もとより拙い理解であるから、もし明らかな誤りなどがあれば識者の方はぜひ正していただきたい。

ライプニッツの『形而上学叙説』における一つの核心は、のちのアントワーヌ・アルノーとの往復書簡での主題に重ねて言えば、やはりla notion individulle、つまり「個体概念」をめぐる考え方であると、自分は思っている。主語のうちにそこに起こり得るすべてのことが述語として含まれているという発想は、他の類概念や種概念から個体概念を事実的なものとして区別するとともに、そこに神による永遠の系列形成と被造物の運命が演繹されているという意味で、非常にドラスティックな世界観を形作っている。ライプニッツの個体概念は、断るまでもなく個体的実体を示すものとして、のちのモナドに引き継がれる。

ところで、主語のうちに起こり得るすべてのことが既に内包されており、それを主語自身は有限的にしか(つまりアポステオリにしか)知り得ないが、権利上創造主である神はそれを全て知っており、しかもアプリオリに知っている。「神がアレクサンデルの個体概念即ち「此のものたること」を見れば、〔……〕我には歴史によってしか知ることのできないことをアプリオリに(即ち経験に依らずに)知ることさへもできる」*1。考えておきたいのは、そのすべてをアプリオリに知ることは神にのみ許されており、このように思惟することのできる我々の認識は常に有限で、そのアプリオリな知識をそのように我々が得ることそのことですら、我々の個体概念にアプリオリに刻まれて神によって見られているということである。別言すれば、例えばこのように私がこの時間この場所でこのようにライプニッツと神について書いているこの事実ですら、この私の個体概念のうちに含まれた述語として(しかもそのように「私」は神によって創られた)、神はすべてを透徹した仕方で見ている。

個体概念は決して人間に限定されない。神にとっては人間も他のものも被造物という点では等しく、その意味では個体概念は人間以外にも適用される。ライプニッツ自身はアルノーとの書簡の中で「アルキメデスが自分の墓の上に置かせた球」などを例に挙げている*2。西田は「明日ストーヴに焼べられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思出がなければならない」ということを述べたことがあるが、これはモナドジーを予想していると言ってよい。「明日ストーヴに焼べられる一本の草」という個体概念のうちに、その来歴あるいは思い出、つまり過去の系列が全て含まれている。こうした考え方は、まず極めて素朴に言って「個の尊重」というイデオロギーに結びつく。個的なものをその尊厳も含めて輪郭づけるという意味で、こうした「個体概念」の考えは便利なものである。その系列をライプニッツのように神による透徹した洞察によって未来にまで権利上想定するとすれば、それは「運命」の問題として予定調和へのよくある批判を惹起する。「明日ストーヴに焼べられる一本の草」は、まさに明日、ストーブに焼べられるという運命をその来歴の起点からして、つまり生まれながらにして背負っていた、しかもそれは神によって決定されていた、ということになる。そこに果たしてどこまで「個の自由」があると言えるのか。そういう批判は容易に考えられる。

ライプニッツの側からこの問題を考えることはライプニッツ研究者に暫く任せたい。自分も関心はあるが、ここで考えたいのは、西田における「個」(彼は「個物」という言葉を用いることが多い)である。

田辺は「種の論理」において「個」については「個人」とか「個体」とかいう言い方をするが、「個物」という言い方はしないように思う。この差異は、結構重要であると思う(そのうちちゃんとリサーチして論文で書くつもりだが)。これは、田辺の「個」観が西洋の伝統的な考え方の上に成立しているものであること、及び西田における「個物」をその伝統とは外のコンテクストに置いて考えることのできる可能性があること、これらのことを指示している。三段論法において頻出するような「ソクラテス」が蓋し「個」のモデルとなってきたことを考えたい。ライプニッツの世界観もこれと無縁ではないし、むしろそれは伝統的なそうした捉え方のより深い基礎づけであるとも言える。それはあくまで一個体的、一人格的なものとして統一され、その意味で限定されたものを基調としている。個人は社会的には最小単位となり、文字通り「それ以上分割不可能なもの」としてのindiviudalなものとして考えられることになる。

しかし西田においては、個人はもちろん重要ではあるが、決して議論の最小単位にはならないと思われる。生命の有機体論や既存の議論の徹底的な解体を試行する西田においては「個人」は他のものを基礎づけるだけではなく、それ自身が基礎づけられるものとして考えられなければならない。その意味で少なくとも個人は出立点にはなり得ない。

種の論理において田辺は、種の類化という転換を行うものが個、特にその行為であることを論じている。こうした図式においても個はひとつのモメントとして捉えられるが、西田の場合はこれとはやはり違う。

西田が「個」の発想に最初に明確に着眼したのは、1910年代の終わりの頃であった。この頃は東大の三浦隼暉さんがご指摘されたように東でも西でもライプニッツブームが起こっていて、ライプニッツの影響は西田が『自覚に於ける直観と反省』を打ち切って考えを転換するときに作用していると見ることができる。この時期はむしろやはり「個体」という側面が一般に押し出されており、「主体」や「個人」のレベルが色濃い。これが場所に至って一般者の限定として考えられるようになると、「個」概念はさらに解体されていくように思う。

自分が考えたいこと、言いたいことというのは、この「それ以上分割不可能なもの」であるはずの「個」の概念それ自体がさらに解体されていく筋が西田においてはある、ということである。もちろん伝統的な意味における「個」の分割不可能性は、精神的実体という側面と大きく関わっている。そういう意味では「個」は分割不可能である。西田の「個」というのは、そういう精神的実体になお物理的に分割を加えるとかそういう意味ではなくて、そもそも「それ以上分割不可能なもの」として考えられるような「個」という観点を徹底することで、維持されなければならないと思念されている「個人」の概念に対して一旦破綻を求めるというようなものである。そこでは「個」は既存の枠組みを失って、永遠の今の自己限定による新たな輪郭を与えられると考えられる(ここから他者論が改組される)。自分は思う。西田における「個」の概念は、この点から一度組み直して見なければならないのではないか。その根拠は、自覚の線形性であり、もっと言えば時間の形成という問題との関係性である。厳密な意味での「個」が「いま・ここ」でしか有り得ないとすれば、個体概念において「いま・ここ」とはいかなる立ち位置を持つのか、という一般的な問いを提出することができると思う(ライプニッツ哲学における「いま・ここ」の意義というものを考えて見てもいいだろう)。

ところで自分は、単に「個」概念が不十分でそれをより掘り下げようということを言いたいわけではない。むしろライプニッツが考えるような「個体概念」はいかにして可能かという問いが考えられなければならない。伝統的な個体概念が主要な単位となってきたのには、それなりの理由があるし、そこには我々のさしあたって大抵の日常生活に対する大きな干渉がある(そこにὄνοµαの問題もある。個体概念は無論単なるὄνοµαではないし、故にこうした考えは単なるノミナリズムではない。が、ここでこのことを詳論するのはやめておこう)。

「真に個なるもの」を考えるだけでことが済むなら、哲学は案外楽な営みである。難しいのは、個なるものについての考えが、既存の個人を基点とする個解釈とどのように結びつくのかという問題に取り組むことだろう。個人の有つ輪郭性は、以上の観点から一旦は破壊されるかもしれないが、それは単に破壊されればよいというものではない。そうなると、やはり所謂自他の問題は融解したまま置き去りになってしまうからだ。

では、所謂個人を担保する輪郭とはいったい何か。それを考えるヒントになるのが「身体」であると思われる。かくして、個をめぐる基礎づけの問題は「身体」に漂着する。ここで考えたいのは、単に「身体」の意義ではなくして(それだと戸坂の批判の典型的な現象学になってしまう)、「身体が持続する」ということの意義である。ここで一旦、我々は戸坂の側に出て考えてみなければならない。個人的なものが物質的に持つ来歴の象徴が身体である。身体を考える機縁はここにあると思う(単に感官的なものに留まるなら身体と言わなくてもよい気がする)。

粗雑になってしまったが、一旦このように考えてみたい。

*1:ライプニツ『形而上学叙説』河野与一訳、岩波文庫、1950年、p. 83。

*2:同上、p. 249。