古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

瞬間の唯一性

西田にあまり馴染みがないという人に『無の自覚的限定』の中で一つ論文を勧めるとすれば、多くの人は慣例的に「私と汝」を取り上げるだろうが、自分は「自愛と他愛及び弁証法」を勧めてみたい。

西田の論文は一見同じような難解な論述で一貫しているようにも見えて、実はものによって著しく性格を異にしている。これはまずは掲載誌にある程度左右され、そして西田自身の考えの成熟具合によって変化すると、自分は思っている。例えば『働くものから見るものへ』の最後に収録された「知るもの」という極めて難解な論述の後に、西田は『一般者の自覚的体系』の第一論文である「所謂認識対象界の論理的構造」という論文を書いているのだが、後者は前者に比べて比較的丁寧に展開されているような印象を受ける。「知るもの」のような性格の論文は、西田自身の内在的な考えがそのまま反映されているという感覚が強く、実際のところ読者を置き去りにしていくことに躊躇がない。唐突に問題にされる事柄や、唐突に生成する独自のターム(「知るもの」で言えば「推論式的一般者」など)に読者はとにかく困惑するし、自分の読み方に確信を持てないまま最後まで読み進めれば分かるのかと思いきや、結局最後まで行っても煮え切らずに読み終えてしまう、ということが往々にしてあるわけだ。そういう難解なものの後に、少し落ち着いたのか整理ができたのか、あるいは何か別に他の理由があるのか、とにかく以前のものよりはずっと読みやすく、西田自身一歩退いたような視点から書いているような印象を受けるものが出てくる。もちろんそれは我々読者側の事情ということもあるにはある。「知るもの」を読む前に最初から「所謂認識対象界の論理的構造」を読めばいい、という話には決してならないからである。「知るもの」の分からなさの後に「所謂認識対象界の論理的構造」を読んだ、という流れが今述べたような印象を生成するわけで、ここで指摘しておきたいのは、そういう風に西田を時系列的に読み進めていくときに現れる論述の難易の変動が確かに考えられるということだけである。(この話は、某西田の研究会でM先生が所感として述べられたときに自分においても明確に自覚されるようになったところがある。)

 

『無の自覚的限定』にもそういう話が言える。「時間的なるもの及び非時間的なるもの」なんかは「知るもの」的性格が強いと個人的には感じる。何か後につながるような重要な概念が生成されたところでは、まだ熟しきっていない概念に揺り動かされて、「西田はいったい何を見てこれを書いているのか」ということがほとんど分からなくなったりもする。それに対してこのすぐ後の「自愛と他愛及び弁証法」は、まだ読者を意識しているような書き方を感じる。さらに、『一般者の自覚的体系』時点での問題も改めて盛り込まれているため、色々と考えやすいところがあるように思う。

 

とりわけこの論文には「非連続の連続」について簡潔な説明がある。西田は既に「私の絶対無の自覚的限定といふもの」においてこの概念に触れてはいるのだが、その本質である「飛躍」というポイントに明確に言及するのは「自愛と他愛及び弁証法」が初めてである。引用しておこう。

真の時は無が無自身を限定するといふ立場から考へられねばならぬ。現在が現在自身を限定するといふことによつて考へられる時は、点から点に移るとか、点が点を生むとかいふ如く、連続的に考へられるのではなく、その一瞬一瞬に於て消えることによつて始まる、即ち死することによつて生きるといふ意味に於て考へられねばならぬ、即ち非連続の連続として考へられるのである。*1

この後すぐ西田は「対象的に点から点に移るとか、点が点を生むとかいふのでなく、点から点へ飛ぶといふ意味を有つてゐなければならない、我々の意志作用に於て見られる如く飛躍的な意味を有つてゐなければならない」*2と、「飛躍」に言及する。

「非連続の連続」の特徴は、一瞬一瞬において死に、生まれるということである。これが所謂「死即生」というものなのだが、我々が一瞬一瞬において死に、生まれているという主張は、常識的とは言い難い。突き詰めれば確かにそういうふうにも考えられるかもしれないが、我々の通俗的な自己認識に対して易々と受け入れられるわけではないだろう。

例えばベルクソンは『物質と記憶』において、「時間に固有の本質とは、流れるということである。既に流れた時間は過去であり、流れている瞬間をわれわれは現在と呼ぶ。しかし、ここでは数学的瞬間は問題になりえない。確かに、理念的で単に考えられるだけの現在、過去と未来を分けながら、それ自体はもう分けられない境界としての現在というものもあるだろう。しかし、実在的、具体的、現に生きられている現在、私が自分の現在の知覚について話をする場合に問題になっている現在は、必ず一定の持続を占めている」と述べている*3。彼は「われわれにとって瞬間など決して存在しない」*4というはっきりとした言及まで残しており、考えられる限りの瞬間というものを実在的には否定している。ここではおそらく「考えられる」というところと、「実在的には」というところがポイントになるだろう。思惟された領域において既に何らかの意味で概念的に措定された瞬間というものは、言ってしまえば知的なフィクションに過ぎないような面もある。だが、我々は現にそれを考え、〈理論上は〉あくまで考え得るそういった瞬間を認めることで、多くのことを考えることができる(ちょうど数学における点と同じように)。そういった「瞬間」の理念的な意義を必ずしも否定する必要はない。自分は決してベルクソンに明るくないが、少なくとも彼が為している「理念的」「実在的」という言葉の使い分けからは、そういったことが言えると思う。

だが西田はあくまでまず「一瞬」を、「瞬間」の実在的な意義を強調する。「時といふものを考へる場合、通常、各瞬間の唯一性といふことが忽にせられて、単なる連続として考へられる。併し時の各瞬間は唯一的でなければならない、非連続の連続として時といふものが考へられるのである」*5。瞬間の実在性は、もちろん単なる実在性ではない。それは「死ぬ」という仕方で消えていく。その意味で唯一性を帯びている。それは単にあるともないとも言えないようなところがある。

そして、このように唯一性が強調されるということは、個物が輪郭をもったものとして、簡単に他のものと融解していったりしない点を確保する上で極めて重要である。だからそれは「死ぬ」という仕方で消えて、その個的輪郭性を失って消滅していく。西田はそこに「自由」の成立を見ているところがある。単に連続的であるということになればそこには一つ一つの独立性はなく、自由ということもなくなってしまう。カントのように、第一批判で自然界の必然を論じた上で第二批判において自由を説こうとするときに、第三批判という目的論的考察が重要になると言われるのも、この点から考えることができるような気がする。自分の理解は怪しいが、自然の因果系列の連続性は、悟性の総合原理に従って判断されてから、理性によって系列の理念が措定されることで考えられると考えてよいなら、必然的な系列は単に連続的に考えられることになる(とはいえ、因果それぞれの事象を区別する限り、それは厳密な意味での連続と言えるのか、むしろ稠密に過ぎないのでは、とも考えられるのだが。。。)。そのとき、必然にして自由な状況は「目的論的に」考えられる以外に成立し得ない。それはやはり、何らかの意味で系列的なものに依存せざるを得ない。系列が主体となるということは、系列の個々の項は要素としての意義に還元されるということであり、そこでは一つ一つの項は系列の系列性に制約されることで自由ではなくなる。目的論的な自由は常に何らかの意味で系列を前提にする、ということが正しいとすれば、そこでの項の身分はやはり二義的になってしまうのではないか。

西田は全著にわたってカントの目的概念に同調するところもあれば、反対するところもある。西田はあくまで「我々の人格と考へられるものはその一歩一歩が絶対に自由でなければならない」ということを強調する*6。もともと彼の自由概念は「絶対自由の意志」と言われるように、あらゆる制約性から解き放たれてむしろ制約を施すような絶対性をもって理解されるものであった。ゆえに最初から「必然と自由」というような形で「調和」を施されるような代物ではなかった。その絶対性を確保するにはどうすればよいかというときに、この非連続の連続における「瞬間の唯一性」ということが重要な意義を帯びてくるわけである。

 

とはいえ、ここに「死ぬ」という表現が用いられているのは、些か仰々しいとも言える。確かに我々がそのように刻々と死んでは生き返っているのかもしれないが、本当の「死」というのは、その後「生」がないということだと我々は考える。一人の人間が死ぬということは、その人のその後がないことだと考える。この問題とどう折り合いをつけたらよいだろうか。

今日のところは一旦ここで止めておきたい。 

*1:西田幾多郎全集』第六巻、岩波書店、1960年、p. 264

*2:同上、p. 265

*3:ベルクソン物質と記憶』杉山直樹訳、講談社学術文庫、2019年、p. 201

*4:同上、p. 94

*5:西田上掲書、p. 276

*6:同上、p. 277