古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

頭燃を払うが如く「見ること」への忌避

朝起きて伸びきった髭を剃った。一週間緩慢とした生活を送って、ようやく研究に対して淡々とした態度をとれるようになってきている。途中(半ば予想どおり)体調を崩しもしたが。

 

梅雨から夏にかけて、この時期は本当に好きになれない。外が照り付けて勇ましくなればなるほど、気持ちは塞ぎ込んでいく。不思議だなと思う。

 

頗る目が悪くなった。

毎日ずっとタブレットやパソコンと向き合ってるので当たり前と言えば当たり前なのだろうが(現にこれを書くことすら免れていない)、ただでさえひどい近視がさらに進んでいるのを感じると、多少心が痛む。見えない、見えにくいということが、まずはただそれだけの理由として、次に身体に障害を持ち合わせている事実として、迫ってくる。こうなると、もういっそ目を閉じてしまいたい、何も見ることが必要でない世界へ、ずっと眠っていたいというような気持ちにもなる。

 

「見ること」と西田は言う。それは特定の感官としての視覚に限定されたものではない。そこで示唆されているのは「ものを見ること」ではないからだ。そういう見地に立ってみれば、目が悪くなって遠くのものが見えにくくなる、見えなくなるということも、決して根本的な事柄ではないということが分かる(鑑真を想起する)。遠くのものが見えにくくなる、見えなくなるということによって、却って見えているものがあると考えることもできるわけである。人によっては(自分にとってもある程度はそうだが)、これは単なる気休めとか詭弁にすぎないだろうが、「見ること」の根源性というのはそういうところでなければならないと思う。

 

試みに眼鏡を外してみる。目の前が、手に届く範囲のものが、直ちに輪郭を失う。もはや書き言葉として認識できるものはない。視界に「あるはずの」文字列は全て壁に付いた濁ったしみと同化してしまう。印象派的になる。それは何かを克明に認識しようとする意志にとっては大きなストレスである。「あるはずの」「あるべき」「本来の」姿を眼鏡を通してしか知ることができない、ということは不思議である。感覚的世界の当為。「感覚」と「当為」の、この並びの奇妙さ。

 

通俗的に考えると、やはり目が悪くなるということは辛い。どれだけ「ものを」見るのでなく「見よ」と言ったとしても、自分の水晶体や角膜がだらしなくくたびれている様を想像すると、なんだか気が滅入る。一切の価値というものを超越するところから見ることができても、我々はそれでも価値を欲する生き物である。このギャップをどう考えるかということが、西田哲学研究において要求されている課題であると言ってよいと思う。なるほどそれは一切を包むことができるかもしれないが、一方それでも包まれたものを後生大事にしたいと匿おうとする心が我々には存在する。社会的世界はむしろそれによって動いている。

西田は「宗教的に迷と云ふことは、自己の目的に迷ふことではなくして、自己の在処に迷ふことである」と述べた*1。西田の根本的な立場というものが宗教的なものであって、その意味で自己の在処に迷うことであるとするなら、社会的世界における人の迷いというのはむしろ自己の目的に迷うことであると言うこともできる。いかに生きるべきか、いかに為すべきか、という当為の問題は、どこまでも宗教の問題ではなく道徳の問題である。そして我々は宗教の問題まで行ってしまいたくはない、道徳の問題としてそれを見たいということを欲している。つまり指針を欲している。あるものを志向していると言える。しかしあるものを志向するということは現象学的には原則であっても、根本的ではない。意識は常になにものかについての意識であると言うことが既に、意識についての限定的な見方であるとも言える。意識というものを根源的に考えているようで、いくらか対象的に捉えていなければ、Bewusstsein von Etwasということは言えない。この場合、何かについての意識でなければならないということよりも、Bewusstseinがいくらか対象的に捉えられているということが問題なのである。しかし元来対象的ではあり得ないものが対象的に捉えられるということが人間の認識であり、「自覚」である。しかし「自覚」ということを離れて、対象的なものから出発すること、限定されたものから出発すること、これが主語的本能的方向であると言ってよいなら、我々はむしろこうした認識の通俗的なあり方の免れなさ、どうしようもなさの立場に立ってみなければならないと思う。

我々は「さしあたって大抵」限定されたところから出発している。真に限定するものとして出発せず、限定されたものを起点と考える。これを単に指摘するだけでも十分でない。「頭燃を払う如く」*2努力が要されるのはこの点においてであると言うことができる。しかし誰もが頭燃を払えるわけでもない。多くの人は自分の頭に火がついていることに気づいていても、それを払う気力も方法も知らない。そのままじりじりと焼かれてやがて滅びるかもしれないとぼんやり思うだけである。そのどうしようもなさを憶う。

頭燃の人は何かを守っている。何かを保とうとしていると言える。「払う」ことができないのは、「払う」ことで何かが変わってしまうからである。そういうところをもう少し考えなければならないと思う。頭燃の人が守っているもの、保とうとしているものは、取るに足らないものでは決してない(だから守るし、保とうとするのである)。その価値が取り払われるということが一つの「頭燃の払われ方」だとすれば、それは望むところではない(その望みこそが主語的本能的方向であるとしても)。だから我々は、別に宗教的なものをそういう意味では求めていないのだと言うこともできる(元来宗教的なものは「求めるもの」ではないにせよ)。したがって望みというものに執着することから考えなければならない。

 

視力低下の話から随分大きな話になってしまった。誰もが頭に火がつけば、払い除けようとするだろう、という説法に随分前から自分は得心がいかなくなっている。現代の人々を見ていて、誰もが自分の頭に火をつけているのに、呑気に、あるいはぼんやりと日々を過ごしている。それとも、そもそも彼らの頭に火がついていると思うのは自分の錯覚なのだろうか。彼らのうちには当然自分も含まれている。少なくとも自分は、毎日のそのそと頭についた火に焼かれることを感じながら、それでも「なぜか」それを払い除けることができないでいる。「ばかもの、はやく火を払わんか」と誰かに言われても、ただ鬱屈になるだけである。かと言って、火に気づいていないというわけでもない。じりじりと自分というものが燃え尽きていくのを、ただ感じているのである。そういう状況を見据えている。そしてそれが、行き詰まりのある資本主義的テクノロジーの世界における個々人の様態の一つであるように感じられるのだが、果たして実のところはどうなのだろうか。

 

 

 

*1:「場所的論理と宗教的世界観」旧版『全集』p. 407。

*2:「一旦真に宗教的意識に目覚めたものは、何人も頭燃を救ふが如くでなければならない。但、その努力は如何なる立場に於て、如何なる方向に於てかである。神とか仏とか云ふものを対象的に何処までも達することのできない理想地に置いて、之によつて自己が否定即肯定的に努力すると云ふのでは、典型的な自力である。それは宗教と云ふものではない」。同上、p. 412。