古都の道場 西向き間借り

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哲学の過激さ——哲学対話に寄せて

縁あって哲学対話型の研究会に参加させていただいた。

まったく未経験というわけでもなかったが、それでもほぼ馴染みのない環境だったので、色々興味深く、また普段あまり自分が交流することのないタイプの方々にお目にかかることができる良い機会になった。

だがどうにも、根本的に何かやはり問題があるような気もする。取り組み自体の意義を否定するわけではないにせよ、胸中になんとなくしこりが残るようである。これを試みに言葉に直してみたい。

 

対話型の進行と展開を考えると、まず、どうにも「忙しなさ」が目立つ。

ある決められた有限の時間の中でそれぞれの考えを表明し合い、まとめたり、意見を交わしたりする。

当然「もっと話したいが時間が足りない」という不満が生じる場合と、逆に喋ることが全員にない時の「どうにかして時間を埋めなければ」という焦燥が生じる場合とがあるわけである。

その間の塩梅をうまく実現できればいいのかと言われると、それはそれで「なんとなくみのりがあるっぽい感じで終わった」という一種のお遊戯感が漂ってしまう。表面的には「いい感じ」かもしれないが、superficielなものはその本質上核心を覆い隠してしまう。

 

哲学という営みには「理路を突き詰める」ことに一つ重要性がある。この「突き詰め」を満たそうとするときに、対話型の営為は決定的な欠陥を抱えることになる。

もちろん、そもそも「哲学的な問い」に触れる機会のない〈普通の〉人々にそういう機会を提供すること自体が誤りであるはずがない。それだけで一つの「気づき」や「成長」を促す意義を持ってはいるだろう。しかし、それは同時に「哲学」を些か薄っぺらくしてしまわないだろうか。それは本当に「哲学」なのだろうか。

 

そうした遊戯的な対話は、なるほど一面に哲学の「閑暇」的性格を反映してはいる。

しかしその「暇」が自分にはどうにもブルジョワイデオロギーに見える。知的な社交場としての意味以上の「突き詰め」は、そこではむしろ野暮なものになる。「私はこう思うんですけど…」を深く掘り下げて語るほど、議論は独占的になる。むしろそこで求められているのは「議論を独占しすぎないでください、迷惑になりますから」という点を適度にわきまえた「面白い」干渉である。そこで一種の「作法」が支配的になり得る。

無論、そのあたりはファシリテーターの塩梅ということになってくるだろう。ただ、それにしても「暇つぶしの延長に得られるものがあれば」という消極的な態度形成は免れないように思う(厄介なのは、参加者自身が自分に内在しているであろうそうした感触には多くの場合無自覚で、むしろしばしば「自分は実りある空間に参加している」といった全く逆の仕方で自己を認識してしまっていることである)。哲学は確かにスコレーの上に成立した一面をもつ。しかしその「暇さ」とは、不安や退屈の払拭を目指すようなパスカルの「気晴らし」ではなく、そうした日常性自体から距離を取ること、その意味でリラックスした境位からはむしろ真逆な、丁々発止・一触即発の真剣な態度を含意してはいないだろうか。私は、哲学にはそういう意味を考えなければならないと思う。

要するに、哲学は本来もっと過激なものなのである。そこを通過することで、今までの自分ではいられなくなってしまう、ものの見方が変わってしまう、そういう過激さが哲学にはある。

そして、そこに個人というものが生まれてくるところへの接触が考えられる。その人がその人として生きることへの自覚も、そうした過激さに恐れず染まってみることから始まるのではないか。そうでない哲学は、結局一つの着脱可能なファッションに陥らざるを得ないのではないか。

 

逆に、こうした営みが講壇哲学者のブルジョワ性を批判する文脈から形成された一面を持っている点は、なかなか面白いところである。

「——講壇哲学者たちは、自分たちにしか分からない難解な言葉を弄して、そうした身分の特権性に依拠した閉鎖的な学問に哲学を押し込めてしまっている。哲学というのは、そうした「一部の」人々に限定されたものではなく、もっと市民へ開放されたものであるはずだ。」

こうした動機が一つの動因となっているとすれば、期せずして市民の地に降ろされた対話型の哲学が失ったものは、そこに秘められていたはずの「過激さ」である。そしてまさにその点であるべき専門性を脱色し、まばらに関心ある「一部の」人々が、特に専門的な知恵を経ないままに参与するだけのブルジョワ社交場に変様してしまうことになるだろう。

 

ここまでひどい言葉を使わなくてもよかったかもしれない。

何度も書くが、私は別にこうした営みがまったく無意味だとか馬鹿げているとか、哲学の本質を見誤った「間違った哲学」だなどと主張したいわけではない。教育上一つの意義ある営為であることは、十分に認めているつもりである。

しかし、そこに「哲学」の名を掲げるのであれば、もっと過激さを徹底させていく方向に稼働させてもよいのではないか、ということを思うのである。哲学は「ゴッコ遊び」ではない。それは武道的な一面を持っている。武道は決して「遊び」ではない。それを通じて、自分自身というものが変化し洗練されていく、という意味を一面にもっていなければならない。

 

哲学対話が「対話」を掲げていながら、本当にそこで一人一人に対面している相手を「人」とみなしているかどうかも疑う余地がある。

外的制約として、先にも挙げた「時間の有限性」がある限り、ある一人の人間の見解をその人の見解として深く受け止め、その人自身を人格的に尊重・承認するということは、難しくなりがちである。「いろんな意見があるよね」というときの「いろんな意見」への総括によって失われる「他ならぬその人の意見性」が、却って多様を愚弄していることにもなりはしないか。そうした仕方で自己形成をする人は「自分は多様に対して寛容だ」という自己認識の中で、自分自身は「誰でもあって誰でもない」という極めて世人的なあり方をすることになるのではないだろうか。

 

無論、以上述べてきたことは十分に哲学対話に参与していない素人の、あまりに雑な所感にすぎない。

私はそうした機会提供に奮闘し、試行錯誤を重ねていらっしゃる方々に心から敬意を表する。

ただ、「哲学対話には本当に意味があるのか?」ということ自体を真剣に哲学対話してみる機会があってもいいし、その方が面白いような気がするのである。