古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

語学における方向

連休が終わる。

この連休は珍しく、少し旅路に出たり旧友に会ったりと、「休日」らしい休日を過ごした。いつも拡張された研究時間として与えられるものから「研究」を取り除くとこういう景色でものが見えるのか、と改めて感じた。そういう精神状態で連休を迎えられたのも、期末考査と成績処理の着手、論文のノルマをこなしたからなのだが、我ながら、ホントよくやってるよなァと素朴に思う。

今日は今後の研究やら仕事やらの調整に時間を割いたのだが、下半期もとても忙しくなりそうである。

まず仕事。

今年はコロナの関係で長期休暇が大分削られてしまった。いつもならこの長期休暇のうちに論文と研究の貯蓄を図りさらに十分な休養を取るのだが、今年はこれができない。業務と平行しながら書いていくしかない。全くとほほな情勢としか言えない。

特に予定より早まった二学期の中間考査と、計画書の提出が完全に被ってしまったのがつらい。調子さえ良ければこの程度は1日あれば書いてしまえると思うのだが、結構重要な計画書なので事前にできる限り集積を備えておきたかった。その集積が長期休暇によって停滞しそう状況が恨めしい。

また、期末の成績処理と学会の予定日が重なってしまったのも本当にやるせない。学会を優先させるとは言っても仕事は仕事なので、手は抜けない。本当に、どうしてこうなった。

次、メインの研究。

上半期がほとんど湯水のごとく消えていった割に、ある程度の書き物のストックができているのは少しホッとする。昨年の加筆修正を通した紀要論文もひとまず脱稿した。これは9月末〆切だから、十分余裕をもって校正作業ができる。連休直前に突発的に書いた懸賞論文も来月末が〆切でこれも同様だ。この懸賞論文は4年近く前からずっとあるテーマで書こう出そうと思ってきたのだが、結局書けず、練っては消しての繰り返しで上がらなかった。今回発作的にテーマを変えて一晩で一気に書き下ろしてしまった。懸賞論文という肩書き上、いろいろと意識することはあるが、ともかく書かなければならないことを書いたという満足感がある。もっとも、修正はいくらか必要な点もあるのだが。

これらはつい最近脱稿したものだが、自粛期間中にこれも苦労しながらだが一本試論を上げた。最初に構想を抱いたのは二年前の冬くらいだったと思うが、その頃からある方向で西田哲学を書いてみたいと思っていた。明確な先行研究がなく、なかなか難しく抽象的な主題だったので、少なからず反対や異論を受けたりしたのだが、一旦距離を取ってみることで、却ってこの構想に還帰したように思う。ともかく、今後具体的に展開するためのアイデアとして試論をひとまとまりに完成できたことは、上半期の大きな達成感であった。

それで下半期はどうするかというと、これが大変なのだ。まず、8月から大体10月にかけて、もう一本試論を書いてみる。その試論を下地に、年度の集大成として一本大きなものを書くつもりでいる。この仕事が一段落すれば、ようやく「種の論理」の本格的な検討に移ることができる。これがメイン。

下半期はとりあえず2つ学会がある。一つはだいたい固まっているが、もう一つはほとんどまだアイデア段階でこれから詰めないければならない。これらの執筆もなかなかプレッシャーになっている。

次、サブの研究。というか、貯蓄。

これは対外的なノルマというよりも対自的なノルマなのだが、ぼちぼちフッサールヘーゲルの下地を作っていこうかと考えている。読むべきものは多いので、空いた時間にコツコツ定期的に読み進めていくということがないと、こういう類は素地にならない。だいたい、日本哲学の研究者にとって海外の主要な哲学者の著作というのは、基本的には研究対象でなくとも基盤的な意味で読解されていなければならないものなのであって、ここを疎かにしてしまうと「哲学」乃至その「哲学史」的な位置づけを著しく書いてしまうことになる。だからコツコツ読むのはとても大事だと思う。読むべし、されば理解されん。

最後、語学。

これについて書こうと思って随分だらだらと書いてきてしまった。来年日本を離れるということもあって(情勢的に離れられるのかどうか知らんが)、語学の必要性に迫られている。この語学が、本当にずっと言い続けてきている話だが、自分は本当に苦手なのだ。幾度となく克服のために向き合ってきたが、未だに難しいな、と思う。

それで、今日改めて気づいたことを記録的に書いておきたい。

海外の研究書を読むということは「語学」ではない。

これはちとまずい身体感覚だった。これは結構素朴に信じていた。

翻訳する。文法的に。わからない単語を調べて、覚えようとする。傍に書く。線を引く。そういう作業の中で、研究書がどんどん解体されていくと素朴に信じていた。が、これは誤りである。

研究書で海外文献を読むということは、このように翻訳をこなし、語彙を増やしていくという語学的な目的でそもそも読むのではない。その内実をインプットするところに意味があるのである。

語学とは、異国の言葉を学ぶことである。その学び方はさまざまだが、不可解な単語だらけの文章に直面したとき、さしあたり我々はその一つ一つの意味を調べて解きほぐそうとする。これは概念分析の方向であって、身体感覚の方向から〈離れて〉いく方向である。否、視覚情報的に限定していくこと、周囲の環境から孤立させていくことである。これは必要な方向ではある。しかしこれを目的としてしまうと、本を読み進めるということはできなくなる。

研究書を読むというときに重要なのはその内容である。

「そこで何が言われているか」を理解するのが肝要なのであって、その言葉を明晰に際立たせ、単語帳的に覚えていくことが主眼なのではない。ある特定の単語は、分析的語学の対象として注目される必要があるが、文章内容全体を捉える上では固執しすぎてはならない。

いかに身体感覚的に理解し、いかにその体験に没入するか。

このこと自体が多大な困難であるということ、これは一つの哲学的な論議であるように思うが、さしあたり今日は示唆にとどめておきたい。