古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

人文知糾弾について

年末。来年度の生活環境のために色々と動くことが多い。集中して仕事として出すべきものはあらかた作り終えたので、あとは締切に合わせて動かすだけのものばかりだが、そういう状況は仕事をしていないという感覚なので、なかなかにもどかしい。かと言って、何か新しいことに着手することができるほど、行動に余裕があるわけではない。

 

今日も合間をぬって本を読んだり授業準備をしたりした。Twitterは最近世相の悪さを如実に反映していて息苦しい。それでも自分が単発的に(それこそ「まとまっていないこと」を出力するために)使っている限りでは慣れ親しんだツールだから、なかなか手放すに手放せない。どこかで辞める決断が必要なのかもしれない。

人文知というのは役に立たない。そして役に立たないことでも「世の中を豊かにする」という朧げな価値観でも、可視化されないからこそ今まで目立たず生き残ってきたとすれば、そうした意義が「民主的」に討議されるSNSでこうも可視化されてくると、もうそんな甘いことも言っていられなくなる。苦しい時代に「金持ちの道楽」にリソースを割くほどの余裕なんてない。いい加減そのあたりを弁えてほしい。

そういうようなことをTLで目にする機会が増えた。悲痛だな、と思う。

 

そこでは、有益性を弁護できない分野は消えていく、と一種の自然淘汰のように言われる。

それは多分、ブルジョワジーに対するルサンチマンから出てきてもいる。怨恨で結構。怨まれるに値するお前らが悪い、とまで言われる日が来るのだろうか。

自分は世の中に対して全く役に立たないものをやっていると言うつもりはないが、それでも役に立つか立たないかで言われたら「(お望みの)役には立ちませんね」と言うほかない。この場合、そう問いかけてきた人を納得させること自体に一種の逆説があるからである。

一般に「何の役に立つのか?」を懐疑的に問う人間にとって重要なのは、その人が固定的な現状に居直ったまま周囲がよりよく変化してくれることである。人文知というのは、その居直る自分自身に「立て、動け、変われ」と命ずるものなので、「立ちたくない、動きたくない、変わりたくない、でも自分の身の回りはもっとよくなってほしい」という考えにある人々に有益に作用するものではない。だから、「立ちたくない、動きたくない、変わりたくない、でも自分の身の回りはもっとよくなってほしい、そういう仕方で役に立つのか?」と言われたら、「役には立ちませんね」と答えるほかない。

 

無論こうした考えは、現状の私の雑な所感にすぎない。本当は「教養」とかいう仕方で言われる人文知の源泉をギリシアにまで遡って、真剣にその意義を解明したいと思っているが、その仕事はそれこそ来年度以後になる。私が研究を本格化するまで、人文知が「立ちたくない、動きたくない、変わりたくない」という大勢の人々の怨恨で握り潰されていなければ、と切に思う。(たとえ外圧に潰されても、自分自身の納得のために研究を行なうのが病的な学者であり、その意味で自分は多くの人が「人文学者よりも世の中の役に立っている」と信じて疑わない科学者と同じ志で研究していると思うのだが。)

 

私が学士1年に入学したときにすでに、人文学の危機というのはホットな話題だった。1年の終わりに自主的に書いたレポートも、人文学を専攻する意義について考えるというものだった。まだ学問という学問も修めていない高校生となんら変わりない私が言えたことというのは、当然本当に大したことではない。ただ、そのモチベーション自体は、指導する立場になっている今の身からしてもなお受け止めておかないといけないなと思うところがある。若気の至りを晒すのはあまりに恥ずかしいことだが、議論の種のために引用しておく。

私はこの発表に於いてこの「人文学を専攻する意義」についてを研究テーマとすることとした。序論でも述べるが、人文学分野は今、大学教育の中で危機的状況にあると言える。しかしその危機を回避するだけの「自己弁護能力」即ち「人文学を専攻する意義について論理的に説明するだけの能力」が、人文学専攻者に果たしてどれだけ見出せるか、私は疑問に思う。少なくとも現時点で私は人文学を専攻している身でありながら、人文学を専攻する意義について経済学主義者に快弁を振るうる自信はない。したがって私はこの〔……〕研究発表を契機に、人文学を専攻する意義について改めて思索を巡らせようと思い立ったのである。

所々の表現に目を瞑りたいが、ともかく「「人文学を専攻する意義について論理的に説明するだけの能力」が、人文学専攻者に果たしてどれだけ見出せるか」という論点が重要な指摘であることは間違いない。自分の指導学生が書いたとしてもそう思う。それを「能力」とすることがどれだけ妥当かはなお問う余地があるわけだが、実際「それがないわけでしょ」という仕方で人文学者を糾弾する人の多いことを考えれば、この言説は妥当だと言ってよい。

それにしても、今改めて読み返してみて、学部一年生で(本人はかなりよく勉強していて頑張っていたとは思うが)このレベルとなると、高校生から大学生が知的活動として成しうることなんて、本当に大したことないよなぁと痛感する。職業的に、アカデミック・ライティングを叩き込んでやりたい、という衝動に駆られるのも無理はない。ここまで一貫して学部1年の頃の自分に「他人」として接してきているわけだが、「お前の言いたいことをもっと明確にするために、もっといいものにするために、この細かいところをきちんとしろ」と言いたくてたまらない。が、多分本人はそんなことより「考えた内容」の方がどうしても大事であって、そんな細部のことを指摘されても嫌になるだろうなと思う。そしてまさに、考えた内容に苦闘することがそのまま高校から大学にかけての多感な時期の自己形成に寄与することを考えると、そうした影響力に対しては後手に回らざるを得ないアカデミックな作法をどこまで執拗に指導すべきかも判断が難しい*1。指導は大変だ。

 

話が逸れたが、私が当時こういうことを書いたのは、学部改変が始まり、進行する只中だったからである。これから自分はそれを通じて飯を食っていこうとしている。にもかかわらず、そんなものは役に立たないと言う大人たちが大勢いる。そういう状況の中で、自分が学ぼうとしているものが果たして学ぶに値するものなのか、自分の人生を賭けるのだから、それ相応の値踏みをさせてほしい、と、そういう心境だったのだろう。今はもう後戻りもできないようなところまで来てしまったが、仮にそういう心境になる学生がいたとして、素朴に尊重したいと思う気持ちはある。

 

すでに書いたように、今の私は「人文学を専攻する意義」をその意義が分からない人たちに説得的に主張することよりも、あっさり「役に立たないよ」と言ってしまう方に傾いている(その方が論理に徹している、と考えてのことである)。それで文字通り「役に立たないのか、じゃあ存在してる意味ないじゃん」というふうに短絡的に考える推論に対してはストッパーを演じなければならないが、まずもう「役に立たない」に振り切ってみなければならないかもしれない、と思う。

そして、そのように振り切るということは「開き直る」ということとも違う。「役に立ちませんけど、それを尊重する義務が人々にはあるはずです」なんて主張は、余裕派知識人の高慢にしか映らない。ポピュリズムに対して斜に構えるようなあり方はもうできない。というより、ポピュリズムに対して全然彼岸にあるような文化教養主義は、今後は本当にひっそりと生きていかなければならないようになっていくだろう。小賢しい時代遅れの老人を隅へと追いやるように。

「役に立つ」ということの意義を問い直すというのも大事だが、それも十分ではない。その問い直し自体がインテリの行為というハードルを持つからである。我々インテリが考えるようなポピュリズムというものの実在性自体をもう少し疑うところから始めなければならないのかもしれない。もし我々が相手にしているのが「大衆」であるのだとすれば、それを一振りで転換できるような「学説」は絶対に存在し得ない。そういうところを考えていかなければならないと、ひっそり思う。

*1:アカデミック・ライティングというのは、考えが未熟で、何をどこまでどう固めたらよいかも判断できない、自分が何をしたいのかもあまり分からない学生に最初から求めるものではないだろう。私はアカデミック・ライティングの指導は修士からで十分だと思う。ただ、このことは文字通り「研究」をまともに開始できるのは大学院からであって、学部生はあくまで「学び手」に尽き、「研究」について云々するような次元にはないことをあまりに如実に告げている。