古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

因果と善悪、偶然性の問題

喉が焼けるような夜だった。空腹時にロキソニンを飲むのには抵抗があった。ネットの記事で胃が荒れたりしやすいと書いていたから。しかし、眠れない長い夜と耐え難い痛みに押し負けて、一錠飲み込んで眠りについた。

 

前回の記事を書いてまもなく、怠さに呼応して熱が出てきてしまった。先方に連絡をしたら、まずはコロナかどうかを判別しなければならない、それで場合によっては、縁がなかったということで、今回は諦めてもらうことになるかもしれない、と電話越しに告げられた。

電話を切るころにはもう心身ともにフラフラになっていて、それでもとにかく検査してもらうしかない、ということであちこちの医療施設や専用ダイヤルに電話をかけた。どこもいっぱいで、結果を今日中に出してくれる施設はおろか、検査すら週明けになるという答えばかりが返ってきた。

もう無理だ、と思っていたら、徒歩圏内で即日に結果を出してくれる診療所が一つだけ残っていた。ダメ元で電話をかけたら、夕方からの枠がまだ空いているから、今すぐネットで問診を受けて申し込んでもらえれば対応できる、とのことだった。

 

検査の時間まで布団で横になりながら、短い時間にいろんなことを考えた。ああ、まさに恐れていたとおりのことになってしまった。最も杞憂に終わってほしいことがそう終わらないなんて、本当に人生だ。もはや、笑えてくる。なんと惨めで、自分に相応なのだろう。あと一歩というところで、こうやって好機を逃していくのか。

検査を受けたあとで陽性の判定を待つ間も、ほんの一縷の望みだけ残して、気持ちはほとんど諦めに向かっていた。

 

身体が正直に告げている通り、結果は陽性だった。それで、ああ、これで本当に終わった、と思った。あれだけ入念な準備を重ねて、毎日夜も眠れないほど真剣だったのに、その結末がこれだ。なんとも、あまりに滑稽ではないか。面接の合否以前に、自分はそもそも不戦敗で退場することになったのだ。勝負もできずに終わった。これが人生か、と思った。

 

先方や職場に連絡をして、観念してまた床についた。悔しさも恨みも、悲しみもなかった。ただ熱で蝕まれ、うなされながら何度も同じ夢を見た。虚しい夢だった。叶わなかった面接で、何度も何度も、カントの超越論哲学の意義を説明する夢。「超越論的」なんて、普通の人は使わないよ、なぜそんなに必死に——私は説明をしたのだろう? 面接のためなのだろうか。その先に何があったのだろうか。なかなかすぐにはその意義が理解され得ない、しかし理解しさえすれば、非常に強力な世界理解の鍵となるこの哲学の意義を、なんとか理解して欲しかったのだろうか。なんのために?理解のために?共感のために?届きそうで届かないものに、必死に手を伸ばすような、そういう純朴な努力だ。それが、かえって痛々しい。もうそんなことしても無駄なんだよ。だって、私はそもそも面接を受けに行くことすらできないのだから。

夢の中でも自分は自分を眺めながらそう思った。

 

熱が本当に沸騰してくる中で、「陽性」の二文字を見た後から感じていた、なんらかの「清々しさ」に目が向くようになった。ああ、ある意味、これでよかったのかもしれない、と。

 

なんとかして受かりたい、なんとかして自分を認めてもらいたい、なんとか自分の暮らしを楽にしたい。そういう欲望が、一概に悪だとは言えまい。

しかし、私は一次の書類選考が通る前から、そして通ってからは一層、この欲望に取り憑かれて神経質になっていたところがある。それによって人との交流を幾らかなおざりにし、それによっていくらか驕りと罪悪感を往来した。

発熱の直前に、既に私はこの点にいくらか気づいていた。だから九鬼周造の『偶然性の問題』を読もうと思って、文庫を寝床に持ち込んだ。発熱したのはその後だった。

「あり得たかもしれない」をリアルに感じること。それは、西田研究者の私にとっては欲望に支配されることであり、「自由でなくなること」である。我々は常に自由である。そして自由でなければならない。九鬼や偶然性に関心をもつ多くの人は、自由であることよりも、この「あり得たかもしれない」のリアリティにこだわる。そこに、私は九鬼研究者といつも袂を分つところがあった。

だがまさに欲望に絡め取られているここ数ヶ月の私には、あらゆる可能性が「あり得る」「あり得た」リアリティだった。そういうものをひしひしと感じているときこそ、九鬼を読めばその意義をちゃんと掬い取れるかもしれないと、手を伸ばした。伸ばした後、間も無く熱に力尽きてしまった。

 

欲望の道が断たれて、未来が一つの道に整備された。岐路のうち求める方の道が塞がって、もう片方に進むより他無くなった。それで、逆にこれからは、なんだってできるのではないだろうか?——返って欲望から解放されて、数ヶ月沈積した苦悩は一瞬で晴れていくようだった。

ここでは、このことが単なる自慰や諦めでないということを丁寧に説明するつもりはない。それは因果と善悪の関係に根ざして論究されねばならないが、病み上がりの自分にはまだ余裕はない。ただ事実として述べておくだけである。

その意味で、私はやはり間違っていたのである。欲望に執着すること、という最も典型的な苦しみに自ら囚われて苦しんでいる。私は「囚われないべきであった」。それが胸の内にスッと入ってきたから、高熱その他諸々の症状に悲鳴を上げながらも、心のうちは平安を感じた。

 

一つの仕事が終わったとき、次の仕事をするときに、見えているものが何もない——この「何もない」ということが最も望ましいのである。何かが具体的に見えているなら、仕事が終わったのではなく、仕事が残っているにすぎない。まだ終えられていない仕事に心奪われているにすぎない。だから仕事は終えなければならない。終えた後は、何も無いというところから始めることができる。自由ということが如実に現前する。

 

先方から電話があって、面接を延期してもらえることになった。岐路はまだ潰えていない。この学びを活かさなければならない。