古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

桜の背後の桃へ

コロナ以来、ひさびさに祖父母の家に一人で来た。

色々考えることがある。

例えば自分が今、コロナを持っているとして、この機会のせいで祖父母がコロナになってしまったら、とか。

 

生来の神経症なので、そんなことを考えていると本当に体調が悪くなる。コロナかもしれない、と思う。ますます不安は増長する。来ない方がよかったのではないか。事勿れで動くべきだったのではないか。嫌な思いは身体に深刻にダメージを与える。なんだか調子が悪いような気もする。馬鹿みたいだが、馬鹿みたいで済ませられないだけに、一層辛い。

 

こういうことは、コロナが流行り出してから何度もあった。

遠方の友人との遊びも何度もキャンセルするハメになったし、ちょっとしたことにすごく気鬱になったりもした。結局いまのいままでコロナには罹らなかったし、周りも自分が原因でそういうことにはならなかった。でもそれは今までたまたまそうだっただけで、次こそはいよいよ、という不安はいつもやってくる。

 

この記事を後に見返して、「ああ、また杞憂だった」と思えるなら、どれだけいいだろう。

そう思えない未来を想像するのが恐ろしい。それを想像することで、今また気分が悪くなることも恐ろしい。せめてこうやって不安を書き綴ることで、なんとか精神を安定させることしかできない。祖父母に会う、たったこれだけのことのために、何という時代だろう。

 

久々にあった祖父母は元気だが、それでも老いの残酷さが周りに溢れている。家の庭には散り始めた桜と、孫のような無垢さで色濃く咲いた梅が目立っている。「これが散った後は別のが茂って、そのあと紅葉が赤くなって、散って、その次はマツが落ちるんだよ」と祖母は言っていた。

救急車のサイレンが聞こえる。遠ざかる。近所に療養用のホテルがある自分の家ではもはや日常になってしまった音だ。ここでもか、と思う。そりゃそうなのだが。

自分はまだ自立の目処が立たない。気持ちだけは逸って、無理矢理にでも飛び立とうとしている。祖父にとって私の博士号取得や就職は、大きな希望らしい。それだけに、色んなことを考える。良い報告を早くしたい。けれども、それは頗る困難な道だ、とも思う。

 

桜の背後の桃の木は、これから起こることを何も知らないような顔で咲き誇っている。桜は既にピークを過ぎて、散りながらに背の低い梅を見守っている。死を自覚しているものと、自覚するにはまだ早いもの。

東北は震災から11年経って、この間また大きな地震に襲われた。昨日も地震があったのを思い出す。この木々も、老いの差を踏み躙るような大地の亀裂に無情にも引き裂かれるのかもしれない。老いではない別の何かに、途絶えさせられるのかもしれない。そして、それが地震ではなく、例えば、私だったとしたら?

 

だとしても、ここまで来てしまった以上、もう取り返しはつかない。決断の無常さを思う。こうした苦悩のリアリティが、田辺はともかく、九鬼のリアリティだったのかもしれない。離接肢に切り裂かれながら、今に「立たされて」いる。ここに被投性のリアリティがある。このリアリティに対して、西田が言えることは何だろう。

 

我々は、必ずしも立たされてはいない。このことは、もはや通俗的な日常理解を超えている。リアリティを超えたリアリティである。しかし我々は、被投性のリアリティを、少なくとも純粋哲学的には出立点にすべきではない、ということは言い得る。それはなるほど、社会的なもの、生きるために生きるものの理論を超えているだろう。

 

風呂上がりに体温冷めやらぬまま書き始めたが、時間も経った。逡巡。