古都の道場 西向き間借り

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ロマンチックに、音楽を聴くように耳を傾けること——『夢十夜』第一夜

今年のofficialな仕事が一通り片付いてほっとしている。あとはぼちぼち自分の仕事をしながら年末にかけて一年の疲れをゆっくり癒そうかな、と思う。

と言いながらもついつい仕事をしてしまうもので、教材研究の一環で漱石の『夢十夜』を読み返していた。

 

夢十夜』、とりわけその第一夜は、今の中高生には甚だ難しいのかもしれない。

小説に「で、結局何が起こったのか」「何が話として面白いのか」をデフォルトで求めてしまうのは、現代人の頗る悪い癖でもある。「話にはオチがないといけない」という特有のユーモラスも単なるユーモアを超えて、なぜか一部の人々に強迫観念として認識されている。それくらい「意味」が我々にとって渇望の対象になっているということだろうか。そういうことを考えていると、最近出版された千葉雅也と國分功一郎の対談『言語が消滅する前に』(幻冬舎新書、2021年)が脳裏をよぎった。

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この書には2017年から2021年までの両者の対談が収録されている。2017年といえば、現代思想界隈で千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋)、國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)、東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(株式会社ゲンロン)の三冊が一挙に発売されて、一時非常な盛り上がりを見せた年である。当時の自分は青二才で(今もだが)、生意気に知人らとこれらへの絶賛や批評を繰り返していたように思う。いずれにせよ本書は、千葉國分それぞれの刊本を題材に始まり、コロナ情勢も踏まえた最近の対談をも収録した、とても興味深い対談集である。

そこで千葉は最初の対談時に、次のように述べていた。

小説、苦手なんです。というか、人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくといのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人のあいだにトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるのであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いているから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。(p. 70)

直後に國分が述べているように、これは極めて「ラディカルなテーゼ」である。それこそ「魂のステージが低い」人は、この半ば挑発的なテーゼに対して不快感を示すかもしれない。でもこれは一つの事実言明であり、人間の愚かさに寄りかかる自慰的なものに対しての、一つの意思表明だと思う(そういう自慰性ときて、自分は真っ先に『蒲団』の書き手としての田山花袋を思い浮かべ、そこに男性的自慰とも言うべき愚かさを想起した。無論これが一つの限定的で恣意的な見方であることは断っておく)。そして当然、後述もするが、こうした千葉の言い方は極めて策略的なものである。

千葉はここでの文脈として「言語の物質性」を強調していた。「言語は物質ですからね。だから、詩を読める、読めないという言い方はあてはまらなくて、詩は意味を理解するものじゃない。オブジェクトなんです」(p. 68)とも述べているように、重要なのは「意味」解釈ではなく、視覚やパロールとしての聴覚イメージなども織り合わされた一つの物質という観点であることが示されている。意味の束縛を離れていくこと。これはとても重要な観点である。

誤解のないように付しておきたいが、千葉は2019年以後『デッドライン』を皮切りに、小説家としても活動を始めている。このことについては、この対談集の「おわりに」で以下のように触れられている。

この間、二人は活動範囲を広げたが、僕の方では小説を書くに至ったのが大きな変化だ。本書にはそれ以前の、文学に対する考えが含まれている。最初の対談では、僕は小説は苦手だと述べていた。人間が「バカ」であるがゆえに起きるトラブルに依存するようなドラマ性を批判している。このとき僕は、むしろ詩に、しかも「言語そのもの」を彫刻的に取り扱うような実験的な現代詩に肩入れしていた。この箇所は一種のユーモアとしての誇張的な言い方なので、ギョッとする読者もいるかもしれない。その後、小説に対する考えはある面では変わり、ある面では変わっていない。人間ドラマのただなかに、現代詩にも似た抽象的な幾何学を見出すことができるようになった、と言えるかもしれない。それは、人間の愚かさを描くことを受け入れないままで受け入れるような、奇妙な弁証法である。(pp. 208-209)

 

これは一つのまとまった結論だと思うが、千葉の場合はツイートのような断片的なテクストにもこうした問題に関する言説を見ることができる。

 

 

 

これらに逐次解釈を寄せることはここではしない。千葉雅也という哲学者の中で「小説」に関わって一体何が起きているのかということは極めて興味深いが、それについての本格的な研究はおそらくあと五十年、早くても二、三十年を要するだろう。かなり冗長になってしまったが、とにかく『夢十夜』を読んでいて彼の姿が脳裏をよぎったのは、この「小説とは何か」という哲学的な問いに対するこうした見解群だった。

 

「小説の筋」ということにさらに問題を限定して言えば、誰もが思い出すように、芥川谷崎論争が近代文学史上の一つの史実としてある。これについても深入りはしない。『夢十夜』に「小説の筋」がないわけでもないし、また確固としてあるとも言い難い。

一体何が問題なのだろうか。

このロマンティークをそれとして実感できるような体験、行間に意志を挟みたくなるような展開、魅力は色々とあるわけだが、とりわけこの短い小品は読者に「ゆっくり」と読むことを求めているように思う。音楽を鑑賞目的で聴くとき、二倍速、三倍速で早く早くと消化することが野暮なように、この文章を一文一文をポツリポツリと情景化することを求める。それは気苦労だろうか。ただ眺めているだけで画面が変化していく環境に、現代の我々はあまりに慣れてしまっている。自らページをめくることすら労力を覚えるかもしれない。

そうなると、文学の時間論として前置きするのも面白い。先ほどの「小説の筋」論争にしても、芥川を漱石の弟子として読むことによって、また見えてくることがあるのも事実である。こういう材料を色々用意して内容に踏み込むのがいいのかもしれない。決して授業時数に余裕があるわけでもないわけだが、ロマンチックに、音楽を聴くように耳を傾けること——これを時間論の哲学として提示しつつ、興味を惹いてもらえるような仕方で料理することが、なんだかんだで年末の裏仕事になるのかもしれない。