古都の道場 西向き間借り

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主語、助詞、格

鷲田清一の「「つながり」と「ぬくもり」」という文章が『高校生のための現代思想ベーシック ちくま評論入門 改訂版』に収録されている。この文章は学力にあまり関係なくいろいろと応用もできるし、無難なのでこれまでも自分は何度か教育現場で使ってきた。

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今まで気づかなかったのだが、改めて読み直していて「ん?」と思う一文があった。次のようなものである。

 

社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であってじぶんにとっての意味ではないらしいという感覚のなかでしか確認できなくなっているのだ。

 

一読してうまく読めず、改めて整理をしなおして意味を把握した。それで取れると思ったが、そうするといくつか別の解釈の可能性が出てくる。大意が取れれば十分だと言ってしまえばそれまでだが、少し真面目に取り扱ってみようかという気になった。それは後述するように、奇しくも自分の今の哲学研究の一部の問題とも重なっているように思われたからだ。

 

⑴まずオーソドックスな主部-述部関係の抽出を試みてみる。

「社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということ」が「確認できなくなっている」という主部-述部関係でとりあえず本質を把握することはできそうである。

つまりは「何が何だ」という構造、英語のSVCを考えるということだ。この場合、動詞(V)の位置に置かれ得るものは look とかの動詞を除けば基本的にbe動詞になる。出た、という感じである。SVC構造、つまりsubject〔主語〕のcomplement〔補説〕を司る動詞は、一般にbe動詞に置換することができる。He looks young. という文章は、意味内容の焦点を He = young という関係におくと考えるなら、is に置き換えることができる。コプラによる一般化と言っていいのかは分からないが、いずれにせよウーシア(正確に言えばエイナイ)を巡る問題と結びついていそうなもので、その意味でハイデガーが脳裏をよぎる。ただ、自分が考えたいようなことは『存在と時間』のページを繰っても、さっと見た限りでは見当たらない。第一部の終わり、「真理論」と呼ばれているのを聞いた記憶があるが、このあたりは自分も関心があって、そのうち読み返さなきゃな、という気持ちにだけなった。

 

大きく横道に逸れてしまったが、とにかくコプラ的接続を考えると、意味自体は取れそうに思える。要するに「社会」において「自分が意味のある場所を占める」、「社会」の側から見て「自分」という一個人が有意味的である、もっと言えば「有用」であるような立ち位置においてあるということが、確認できないという話だ。

 

と、ここで違和感が生じる。この場合むしろ「確認できなくなっている」という動詞は「何だ」ではなく「どうした」として解釈しなければならないはずである。つまり、「確認できなくなっている」当の主体は前述の名詞句ではなく、むしろこの文中に存在しない主語「人々は」とか「我々は」とかではないか。そしてむしろ名詞句「社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということ」は主格ではなくて、あえて言えば目的格ではないか。 

実際「は」と共に悪名高い格助詞「が」の意味・用法には「主格」とともに「対象」がある*1。「水が飲みたい」のように、「が」は目的格的に accusative に用いられることがあり得る。ここでは「社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということ」を「人々は確認できなくなっている」と見るの方が幾分か自然であり、その意味でこの文に主語は存在しないと考えるのが適切に思えてくる。

 

⑵存在しない主語を補って解釈を進める。

そういうわけでこの文に主語を補って再解釈してみる。

社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということが、社会にとっての意味であってじぶんにとっての意味ではないらしいという感覚のなかでしか、〔人々は〕確認できなくなっているのだ。

これを再度、先ほどのように整理しなおしてみると、「人々」は「社会のなかにじぶんが意味のある場所を占めるということ」を「確認できなくなっている」となる。なるほど、それっぽい意味が浮かび上がってくる。要するに、一般論として、社会における自己の存在意義の喪失が語られているということが構造的にも明確になるだろう。

こんなまどろっこしいことをしなくても、それはざっと読めば「分かる」ことなのだが、ここでは文章の構造としてそれが明確になることが重要である。この段階でようやく、助詞「が」が使われている意味が判然とする。ここは少なくとも「を」にはできない。もし「を」にしてしまうと、後続の条件節に潤滑に接続できなくなってしまうからだ。

 

いくつかまだ疑念は残るが、ひとまず以上のように解釈に落ち着いた。それにしても、助詞と格の関係性は日本語においてどれだけ明確に咀嚼されているのだろうか。

日本語と主に印欧語を比較するときには、教育的観点からその類似性が(たとえ理論的にはこじつけであっても)強調されざるを得ない。以前採点業務中に同僚の先生に「主語を答えよという問題で、助詞まで含めて解答せずに名詞だけ抜き出していたら×にするか」と問われたことがあった。例えば「この花は赤い」という問題の主語を抜き出すときに「この花は」までを抜き出すのが正答で、「この花」だけを抜き出すのは誤りだと言う。自分が「英語の感覚だったら、別に「この花」(=This Flower)だけでも全然いいもんですけどね」と言ったら、「いやこれ日本語だし。小学校だったら×にしないといけないんだけどね」と嫌味っぽく言われたので、半分は一理あると思いながら、半分は馬鹿げてるなと思って放っておいた。確かに日本語には例えば印欧語のような単語それ自体に含まれる格変化はない。現代語でそれが顕著に現れるドイツ語と比較するまでもなく、印欧語は古代ギリシア語、サンスクリット語の時点から格変化を文法上の一つの基軸にしていたわけだが、別語族である日本語にそれを密輸入することは学問上「真理」の観点から躊躇される。そういうわけで、日本語の独立文法すなわち国文法的な基準を考えざるを得ない。とはいえ、それで「この花」だけを抜き出すことが×だとは自分は思わない。正確に言えば、学校教育において「誤り」として処理するほどのことであるとは思わない。思考の心理的過程として印欧語からの類推を念頭においた際には、こうした解答は十分にあり得るし、我々はある意味自国の文法というものを即自的にではなく即自かつ対自的にしか見れないところがあるからだ。

 

ともかくこの問題は一筋縄ではいかない。しかしそれでも検討すべき点があるのは、西田哲学における「主語」「述語」を根本的に考え直す際に、この問題はどこまでもついて回るからである。

西田が主語と述語というタームを哲学的に起用した背景は言うまでもなくアリストテレスにある。しかしアリストテレスは当然印欧語の古代ギリシア語を用いていたわけだから、先ほどの議論を踏まえて言えば、日本語のような助詞観念とは根本的に発想が異なる。古代ギリシア語においては、同格はもはやコプラを必要としなかったし、動詞が既に人称変化を含むから、特に「私が」を意味する ἐγώ (エゴー)を置く必要もなかった。これはサンスクリット語もそうである。

そもそもsubject-objectの概念にせよ、コーヘンが述べているように「対象の問題についても時代は区別され得る」*2のであり、ギリシアにおいて τὸ ὄν と呼ばれた「対象」は学問的に ὄντως ὄν あるいは οὐσία と規定され、「最も真にそれのウーシアであると考えられている」*3ところの ὑποχεὶμενον が中世に至ってラテン語に翻訳される過程で「対象の実体的性格」が主張されるようになった。このとき object の方はむしろ「精神のうちに客観化されたもの」としてむしろ「対象の表象」を意味していたと言う。これは近代以降に生きる我々にとってまったく逆なる意味である。だとすると、文法事項上我々が「主語」と呼ぶものは一体なんなのだろうか。

 

そもそも主語という概念は日本国内においてどのように作られたのだろう。自分は現状この件についてほとんど無知と言って等しい人間ではあるが*4、もしこれが西周のプロジェクトにおいてシニフィアンとして生成した語句であるとすれば、我々が「主語」と呼ぶものは結局は西洋由来のものであるということでしかなくなる。subject と grammatical subject の差異に切り込んだ視点で問題を考えている自分にとって、これは極めて大きな問題である。西田が「主語」「述語」というタームを起用するとき、基調はやはり印欧語における subject-object なのであって、日本語の厳密な文法語形態は考えられていない(というより、同時代においては山田孝雄時枝誠記が国文法を整備していたのだから、現代のように公理的なものとして捉えられてはいなかったはずである)が、大体それらの意味するところの交わりを意図していたというのが、現時点での自分の読みである。中村雄二郎らの観点は自分にとってはさしあたりどうでもよい。場所的論理が「日本語の論理」を解き明かすという主張は言えなくもないのかもしれないが、人間一般の生において、かつ学としての哲学においてまず重要なのは、それがオノマ的に統一されるということの意味なのだから。

 

以上のようにつらつらと書いてきて、改めて自分のやろうとしていることの難しさが身にしみる。「言葉として限定する」という発想では、もはや満足できなくなっている自分がいる。言葉が既に表現として限定なのだという考えからは「学問」は出てこない。——ニューアカデミズムの台頭と大学の権威の失墜の延長線上にあるポスト・トゥルースの時代においては、ある意味で頑なな「学問」なんていうものは destruction されてしかるべきなのかもしれないが、我々は結局そういうものを破壊したところで「何が真か、何が偽か」を考えることから免れることはできない。「真」と「偽」を単に峻別することが難しくなっているにせよ、その峻別を包むものがもはや考えられなくてよいというわけではない。自分はそこに場所的論理が「論理」と言われることの意味を読み込んで、何らかの答えを与えてみたいと思うのである。

 

 

*1:国語科教師御用達の手持ちの便覧による。口語文法事項なので、特に出版社によって大差はない気はするが、また追って比較・検討しようと思う。それにしても、日本語文法の指針書みたいなものって(例えばドイツ語のDUDENのような)あるのだろうか。母国語で教師でもある身として恥ずかしい限りだが、そういうものは聞いたことがない。

*2:Hermann Cohen, Logik der reinen Erkenntnis, in Werke, Bd. 6, Georg Olms Verlag, 1977, S. 68

*3:アリストテレス形而上学』(上)出隆訳、岩波文庫、1959年、p. 230

*4:今回のことで、いろいろと調べてみて見つかった文献を、メモがてら残しておく。

・坂野信彦『ハとガの謎をとく―助詞「は」と「が」の原理』ブイツーソリューション、2014年

・半藤英明『日本語助詞の文法』新典社、2006年

・野田尚史『「は」と「が」』くろしお出版、1996年

・服部隆『明治期における日本語文法研究史』ひつじ書房、2017年

山田孝雄『日本文法学概論』宝文館、1936年

山田孝雄『日本文法論』宝文館、1908年