古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

古都の対自的自覚

フランス人の気のおけない仏教哲学系研究者と朝から色々文面でやりとりをしていた。今日はオフ、というわけでもないが、久々に対外的な用事がない日なのでゆっくりしたいとも思っている。

本来宗教的なものに惹かれて哲学の門をくぐった身としては、いつかそういうものにしっかり沈滞してみたいという気持ちもあるのだが、あくまでそれとは意識的に距離を取ることを決意してからは、めっきり触れる機会がなくなってしまった。それで今日のやりとりの中で『成唯識論』が話題に出てきたので、書架をあさって竹村牧男先生の『『成唯識論』を読む』を引っ張り出してみた。

 

シルクロードの終着駅としての奈良」ということを思って、身近にある興福寺東大寺のことを考えて見ると、なるほど少し古都に対する感じ方も変わるような気がする。

つい最近「郷愁」について、自分にとっては奈良は故郷とは感じられない、というようなことを書いたばかりだが(あるいはだからこそ?)、唯識をめぐる思想の漂着地として当時の匂いを嗅ごうとすると、奈良にも趣はあるものだな、と思ったりする。

住めば都ならぬ古都に住むという身にあっては、東大寺興福寺はあまりに近すぎるが故に、それは歴史的な香りをむしろ脱色して「現代」のものに感じられてしまう。少なくとも自分にとってはそうだ。何度も外から遊びに来た人を案内したし、奈良公園内を昼夜問わず散歩したりすることができる環境に生きていると、物質の過去性がどうも削ぎ落とされてしまう。平城宮跡にせよ何にせよ、再建や修繕を経て「今」存在するということによって、むしろそれが象徴的に有すべき第一義的な過去性というものが、全く感じられなくなるというようなことがあると思う。これは歴史的な観光地と呼ばれる場所に住んでいる人にとっては、リアルな話ではないだろうか。

 

大半の観光客は「雰囲気」がどうのこうの、好きだの嫌いだのと言うわけだが(別にそれを否定するつもりもないが)、それはどこか地に足のつかない、なんだかふわふわした感じをイメージしてしまう。歴史的なものに触れるというのは、そういうものでもないような…、という筆舌に尽くし難い情感が自分の中にはあった。

 

歴史というのは匂いをかぐところに感じられる。目で見て、耳で聞いて、というだけのものではないと思う。もちろんここでの匂いというのは具体的な嗅覚の話に留まるものではなくて、映像的に過去と現在の全くの断絶を嗅ぎ分けるようなところがあると思う。今生きているところの匂いしかしないと、過去はない。

 

大体南都六宗なんて、ほとんど世俗から隔絶している。多くの場合は鎌倉新仏教が一つの大きな具体的な糸口になっていると思うが、法相宗とか華厳宗とかいうものは、門外の人間にとってはとても親しめるものではない。それを取り巻くつながりというものが全く見えてこない。そうなるといよいよ過去のものとしては実感し難く、とりあえず慣例的に観光対象になっているという現代的な見方から出ることはできなくなってくる。『成唯識論』にせよ『唯識三十頌』にせよ、そういうものが玄奘とか基とかいった人々があって、テクストを経由して聖徳太子に漂流していくその流れを嗅ぐことで、そういう場所としての過去というものが(これは構想力によるものでしかないのかもしれないが)視界に拓けてくるような気がする。そうして初めて、どうも結びつきの悪かった住まいとしての古都に、一つの自分の居場所のようなものが自覚されてきたように思う。自分にとって「奈良」という言葉で表される場所は、決して多くの人がこのシニフィアンから連想するような文化的な豊穣さと直ちに結びつくものではなかったし、それに託して自分の居場所を語ることはどこか居心地の悪さを伴うものですらあった。自分にとってこの古都の居心地よい場所があるとすれば、それは近代日本哲学を生きた人々の間を駆け巡るときと同じような仕方で、この土地で仏教研究に従事した多くの人々の動きを感知するその情景くらいだろうか。そして歴史的遺産というのは、本来そういう仕方で認識すべきものであるはずなのである。歴史が現在に生きているというのは、決して単に歴史的物質が現在にまで持続的に残存しているとか、そういうものと同時代的に接していることへの驚異とか、教訓とか戒めとかいうものがそこから教えられるような類のものではなくて、歴史的物質がそれとして反復しているところの過去にまで自分が連れ去られて、その中で泳ぎ回ってそれが身体中に沁み渡った頃に、再び現在というところに帰ってくるという、そういうものでなければならないと思う。そういう事態を、過去の歴史の匂いをかぐ、と言うのである。それは深く知るということによって可能になる。深く知るということは、自分の肉体がこの世に生を受ける際に課せられた時代的制約から知的に自由になるということに結実する。

古典のみならず本を読むということはそういうことである。そうでなければ過去は遠いままである。過去は理念でしかない。過去は実在しない。しかし歴史的物質が反復している過去に連れ去られるということによって、過去は我々において実在するのである。あるいは、我々は過去において実在すると言うこともできると思う。自分が生まれていない20世紀初頭の京都を居心地よく思ったり、1300年以上昔の過去に自分が置かれてあるということが感じられると思う。何度も言うことだが、それを構想力の単なる戯れだと言ってしまうこともできるだろう。しかし我々は歴史的物質に触れてその周辺を深く知ることによって、それがそれとして反復しているところの過去それ自体にひらかれるということは、やはりあると思う。

 

まとまらないままつらつらと書いてしまった。もう少し考えてみたい。