古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

内省

先ほど記事を書いてとりあえず仕事をした気になって、昼間はずっとベッドで過ごした。気に病むことがある以上、休むしかない。気力もないし、明日からまた仕事なのだから休めるだけ休んだほうがよい。そう思って昼食を食べたらすぐにカーテンを閉めた。

少しだけ眠ったような気がする。でもやがてなんだか寝ているのも辛くなって、のそのそ起き出してデスクに向かった。

いくつかメールを処理しながら、淡々とドイツ語の翻訳を出す。研究をしているときは少し気持ちが楽になる気がする。余計なことを考えなくて済むからだろう。それでも研究するということは疲れを伴うわけで、一段落したときにはいつものように疲労を感じた。

夕食の後でフランス語の翻訳に移ろうかと思ったが、やはり気が重い。どうせやるなら、明日の授業準備をすべきだとも思う。この記事を書いたら少しそれに手をつけるつもりだが、この清算しようのない感情をどうにかしたいと思って、とりあえず筆をとることにした。もはやこのブログを読んでいる人などほとんどいないだろうが、できればそのほうがありがたい。誰にかに向けて話したい、ということもあるし、一方であまりデリケートな部分を知られたくない、荒らされたくないという気持ちもある。しかも抱えているものが抱えているものなだけに、面と向かって誰かと話す気には到底なれない。こういうとき、書くことができるというのは素晴らしいことだな、と思うし、そういう風に生きてきてよかったと少しホッとする。

 

とにかくこの一ヶ月は色々なことがありすぎた。

新年度が始まって授業の方針も変わり上司も変わり遥か年上の同僚が増え相性は最悪でとにかく節操ない職場事情。ようやく年度初めての中間考査が終わったが、十分な授業のストックもないからあまり悠長にしていられない。例年と違うサイクルや時間で仕事をしなければならなくなったのも辛い。

それでいて十年以上付き合ってきた恋人にプロポーズしたことで、いよいよ新しい生活を準備しなければならなくなったプレッシャーもある。とにかく不安しかない。それは相手に対する不満とかでは一切なくて(本当にそういう不満はない)、単純に自分に身分の不安定さ、金銭的な切迫状況、周囲に対する配慮などである。

そういう中で就職活動も本格化し始める。今できる限りの最大限の努力でとりあえず公募も出してみるが、世の中はそんなに甘くない。この業界で就職活動が厳しいというのは周知のことで、自国の現状を見ている限り夢も希望もない。こんなに安定が欲しい、と思ったことはない。

その割に、今自分が何より取り組まないといけない博士論文も腰を据えて書く時間がなかなかない。金銭的な不安を埋めるために仕事を増やしたが、例年に比べて気を使うことも多く仕事の効率も悪く結局仕事から帰ってきても疲れて研究する余力が残っていない。そんな生活が重なれば、当たり前だが研究上の不安はどんどん傘増ししていく。五月病以上に、六月のこの不安定な気候と、たまにかけるエアコンの風が、自分の身体を蝕んでいる。

 

ようやく中間が終わって、採点に追われながら胃の痛い仕事に疲弊しているところで、高校時代からよく面倒を見ていた後輩が急逝したという連絡を受けた。これがまた心に応えた。間接的に、自分にも非があるかもしれないような、そういう雰囲気だったから、応えた。詳細は分からないし、ここに書けるようなことでもないが、それだけに一層重く残り続けている。

 

見えないところで蓄積があったのかもしれない。とにかくここ数日は、変なミスを連発するし、これまでの自分からは考えられないような、我ながら信じられない失敗もした。どうしようもなく重いし、どうしようもなく嫌な気分だ。ふとした折にフラッシュバックする。こんなコンディションで、本当に明日から教壇にまた立てるのだろうか。取り繕えるのだろうか、という気持ちになる。

 

どうしようとも人生。トラジックな人生。どこまで行ってもトラジックだが、それがこうも残酷な形で表面化するとは、驚きである。頭も痛い、吐き気もする。体調が優れない。でも「大人」だし「先生」だから仕事を休むわけにはいかない。泣き言を言って、大事を失ってはならない。

酒にも逃げられない、タバコにも逃げられない。誰かに相談しても気が晴れない。研究だけが一縷の望みと言っていいかもしれない。研究にだけ未来がある。まだせめて救いがあるとも言えるかもしれない。その先にも未来がないかもしれない、とはもう考えたくない。常識的に考えて、フランス語やドイツ語で本を読んだり哲学を中心に高度な議論ができるということはすごいことなのに、そういう努力を積み重ねてきた人間が報われないような未来を、なぜこの国の「大人」たちは描いているのだろうか。それすら「言ってられない」自転車操業なこの生き方には、世界はあまりに残酷すぎる。

 

なんだか書いていて悲しくなってきてしまった。それでいて少しは気が晴れただろうか。ミスをしたり、自分が普段し得ないような失敗をするというのは、自分が横柄で、調子に乗っていて、不遜だからだろうか。そうも考えた。そういう自分の態度を思わないことがないわけでもなかった。例えば自分の倍以上生きている人と話すときに、こんなラフな話し方をしていいものだろうか、どこかで自分は特別だと思ってやしないか、そういう不遜さがお前の周りに漂っていないか、ということを感じたり。自分のやっていること、自分の考えていること、そこになまじ自信が出てきたがゆえに、お前はとんでもない「大人」になろうとしているのではないか、と思ったり。授業で『山月記』なんて読んだものだから、余計に自分の自尊心が嫌になる。そういう傲りが、自分のミスにつながったのだ、とも解釈できてしまう。

 

もちろんそういう変なプライドの問題もあったかもしれない。でもやはりそれ以上に、色々心に応えることがここ数週間で多かった事実を抜きにすることはできない。休養も必要だが、気持ちの転換が必要だ。我々は必ずしも所与から出立するわけではない。この重苦しい気持ちの外に出られないでいる感情的な所与からは、むしろ逃れるべきである。自分の考えでは、そこに西田が絶対無の場所と呼んだものの意義があるはずだ。今このように抱えている事実を見るものは、今はまだ切り離すに切り離せないかもしれないが、やがてその対象は必ず「私」ではなくなる。この感情ともオサラバできる。そこに「自由」がある。既に見るものは自由なのだ。

この重苦しいものからはむしろそう簡単に自由になるべきではないのかもしれない。それは桎梏や「負課」であるべきなのかもしれない。ただ、少なくとも自分は今、負課を背負うことだけでは耐えられない。所与が負課であると同時に、そのことが自由に拓かれてもいるということ。それが現実の世界の論理的構造である。西田はこれを明らかにした。

 

背負うべきものと世界。少し書いたら整理もできたような気がする。

そう簡単に折り合いがつけられるものではない。この場限りですんなり事が片付くわけではない。ただ、今まで自分はこうやって気持ちを確認してきたし、そうやって思想を形成してきた。それと同じようにここに書き綴ることによって、いくらか自分の進むべきこれからを思い描くこともできたように思う。

 

痼りをそのままにするのは自分の性ではない。しかし今後も触られて疼いて、それがまたパッカリ開いてしまうかもしれない。それでも明日を迎えるし、頑張りたいと思う気持ちの芽生えは大切にしたい。

 

とりあえず、頑張ってみようと思う。