古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

対象への議論

参院選が近づいてきて、Twitterのタイムラインが政治色を強く帯びてきた。この手の話題は頗る苦手だ。

 

第一、不可解なことが多すぎる。経験と現実の差異、と言うべきだろうか。自分の周りでこれだけの人が「今の政治はおかしい、選挙に行くべきだ」と言っているのに、実際の投票率や結果を見るとあまりにそうではないものが出てくる。今回もおそらく、自公与党は変わらないし、維新が少し議席数を伸ばして、他はまちまちという感じだろうか。選りすぐりの中から惜しんで一人を選ぶのではなく、もはや選びたくないのに誰か一人「一番マトモそうな人間」を選ばないといけない選挙形態が、あまりに馬鹿らしい。それでも毅然とした態度で投票に行く「大人」が、どうやら少ないらしい。また「大人」と「子供」だ、と思う。

 

諸外国を見ていても、とりわけアメリカは大変そうだ。これは日本だけの問題ではない。結局この21世紀は、誰もが自分自身を引き受けられなくて、手をこまねいている時代なのだ。

 

情報が情報で塗り替えられ、あまりに対象への議論は煩雑である。対象への議論においては「何が正しくて何が正しくないのか」があまりに見えづらい。政治の問題を考えるときには特にそうだ。そうなると、自分などはそもそも、対象への議論それ自体の性格がもつ問題なのだから、それ自身を内省する立場から見ざるを得ないのではないか、と考えてしまう。

 

対象への議論が煩雑だ、と言ったが、大抵の議論はそうだと思う。論理主義を軽視し、基礎づけの不十分な心理主義、経験主義に基づいて、超越的なものへの議論が失われていく中で、全ては「多様化」という言葉でそれ自体曖昧に相対化された。未熟さも成熟も等しく肯定された。そうして皆が未熟者であることを恥じなくなった。否、未熟であることを恥じることが、一種の「被害」であって、「辱められること」という認識に落ち着いた。万人よ、被害者であれ。

 

私は未熟を肯定することは重要であるとは思う。未熟であることは否定されねばならない、と必ずしもそう思っているわけではない。しかし一方で、その点は田辺の方にシンパシーがあるというか、単に未熟であることを肯定するだけなら、人に成長はないと思ってしまう。成長を望まないこともまた一つの多様性であるというなら、それまでなのかもしれない。

 

成長というのは最近よく考える。場所の自己限定から、弁証法的一般者の議論から、成長ということをどのように位置づければよいのだろうか、ということを思う。ここに難点がある。個物が個物自身を限定することが成長であるとすれば、個物の自己限定は死即生ではない。死んだものは二度と生き返らない。むしろ死即生こそが成長であるということになるのだろうか。そうであるなら、成長するためには個物は死ななければならない。しかしそのような個物はもはやモナド的な意味での個物とも言い難い。モナドにおける成長ではなく、成長におけるモナドという意味になる。モナドにおける成長は、ライプニッツであれば連続律に基づいて考えるような気がする。しかしそれは西田的には多分NGである。自由ということを考えることが難しくなるからだ。だから成長におけるモナドというものを考えなければならなくなる。しかしそれはもはやモナドの意義を持たなくなる。単なる統一という意味になる。

この問題を長いことずっと考えてきて、未だにどうするかで悩んでいる。解けそうだが解けない。もう少し真剣にやってみればなんとかなるのかもしれないが、少なくともまだ解けていない。

 

いつのまにか話題が成長とモナドになってしまったが、ここで書きたかったのは「対象への議論」についてだった。こういう表現はあまり使われないだろうが、とりあえず思いついた暫定的な用語でしかない。場所的論理に対して対象論理という言葉が晩年の西田においては使われるが、そこからの類推である。要するに、於てあるものだけを見て議論するということを考えている。対象という言葉を使ってしまうと、昨今はオブジェクト指向存在論とか色々あるから、却って誤解を招くかもしれない。於てあるものしか見ていない、というあまりに当たり前のことを示すのに使っている。もっと言えば、限定されたものの中でやりくりしようとする思考全般を考えている。

 

限定されたものの中でやりくりをすることが可能であるのはなぜか、という問いも、ここに含まれていると考えることができる。資本主義の時代は、作られたものの時代である。作るものへという方向が十分に考えられない。大衆の消費が一義的である。作られたものが作るものを作る、ということが、生理学的なレベルでは考えられても、思想的なレベルでは考えられない。思想が作られるということがない。少なくとも自覚がない。

 

思想が作られるということと、理解ということの違いについて考えてみなければならない。理解するということが必ずしも思想を作るということにとって十分でないということを考えてみなければならない。解釈学的な理解、さしあたって大抵の理解、それは思想を作るということにならない。田辺が弁証法を導入するのもそういう問題にある。