古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

冬のノスタルジー

昨日採点業務が終わって、レポートも一通りチェックした。

あとやることは来週の発表準備と翻訳、そして年度末報告書のため研究だ。

 

ともかく色々落ち着いてきた。それに合わせて、いろんなことを感じる。冬は冬のノスタルジーがある。今日は雨だったので最低限の仕事だけやって、あとは映画を見たり音楽を聴いたりして過ごした。これから行きつけの居酒屋に飲みにいく。オフだ。

 

土日は家族が家にいるため、気を使ってどうも十分休めない。だから結局土日をオフにすることができず、中途半端に仕事をしてしまって休めないということがよくある。案外平日の方が休める。今日はそういう日だった。

 

青春をスポーツではなく音楽に捧げた人間の特権かもしれないが、音楽を聴けば簡単に過去を思い出すことができる。音楽がそのまま過去への通路になっている。特定のメロディーがある感情との結びつきになっている。それは広い世界への通路ではない。むしろとても狭い、限定された、世界がそこにしか存在しないような儚さを伴った世界につながっている。そこに感情がすべて溢れている。非日常的で、それは正しく現実ではない。多くの人がおそらく「感動」と呼ぶものだと思う。

 

愚かであればあるほど感動する。心動かされる。そういうことが言えるのではないかと思う。

感情的な人間は愚かである。例外はない。反省がないからである。自己自身を振り返ってみるということがないからである。自覚がないからである。

この文言を見てすぐに「愚か」という言葉に飛びついて不満を持つ人が感情的な人間である。あるいは、単に思慮が浅いと言うべきかもしれない。そう言えば「思慮が浅くて結構だ、感情的で何が悪い」と開き直るだろうか。自分が言いたいことは、まだ一言も言っていないのに、おそらく人はこのプレリュードで既に全てを見た気でいて、私を誤解する気がする。そういう意味でも、やはり愚かである。

 

私が言いたいことは、私が愚かだということである。孔子は四十にして惑わずと言った。不惑は動じない心であり、不動である。ある意味では感動しないということである。感動しないということが、一つの成長であり得るということ、このことを問題にしたい。

 

冬のノスタルジーは愚かさと直結するわけではない。ただ、狭い世界で感動するということが冬の感動であるように思う。これはいつぞや書いた夏の表象ともやはり違う。

 

picassophia.hatenablog.com

 

季節と感情。そこにはまだ言葉になっていないものがたくさんある。

いったいいつになれば、そういうことを落ち着いて眺めて、言葉に紡ぐことができるようになるのだろう。