古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

イデアを見る

英雄ポロネーズで、だんだん目が冴えてくる。

ときどきこの時間の流れ自体が、どこかの誰かの記憶とつながるような気がする。

何の煩わしい喧騒も疑心もない生活。それは営まれるべき生活ではないが、瞬間として存在するような生活である。仲の良い友人も家族も何もかもが忘却されている、いやデリートされている中で、風景と匂い、瞬間としてだけ存在する生活。

振り返って思えば、これが芸術鑑賞なのでは?という気がする。しかし、別にそうである必要もないのかもしれない、ともすぐ思う。古典的なものと触れるということは、少なくとも通俗的な意味での現代というものからは解放されるということだ。それは逃避でもないし、装飾でもない。気がついたら、憂うような現実というものが別に存在しないような世界にすでに投げ込まれている。そこで、例えば明晰夢のように、ふと「現実」が目に入って、そこに儚さが生まれてくる。それでも、「現実」によって今そのように感じている恍惚が穢らわしいものになったりはしない。恍惚はそんなもので台無しになったりはしない。イデアは移ろう現象に支えられなければ存在し得ないような脆弱なものではないのだ。

 

昨日は日曜日なのに出勤して、色々と手を動かした。

それでもやはり休みの日に働くというのはいつもと違うことで、どうにも十分事を成したという感じがしないまま帰ることになった。

それで、平日のうちに済ませなければならない色々な用事があるから、今日は一日休みをとってみた。

妻を仕事に送り出し、簡単な家事を済ませ、散髪に行き、買い物をして雨に降られ、帰って昼食をとった。オフだからと思って気を抜いて、昼食をとったらしばらく寝てしまっていた。

 

それでもまだなんとなく眠い。洗濯物を片づけてから、仕事の連絡が入っているのに気がつく。それでふとメールを開いてみると、週明けだから仕事が色々舞い込んできている。しまったなァ、と思う。こんなに仕事が溜まるくらいなら、半日休にして午後から仕事に出るべきだったと後悔する。もう後の祭りだし、天気は悪くて気分もなんだか重い。また眠ることにした。

 

リストのラ・カンパネラとか、ドビュッシーの月の光とか、王道なピアノ曲が好きで、それを流しながら横になった。気持ちよく眠るけれど、身体の節々はなんとなく不快で、このまま身体が音に溶けてなくなれば良いのに、と思う。近頃また、目も悪く耳も遠くなってきた。物も見づらいし、音量も上げないと十分楽しめない。誰かに迷惑をかける前に、どこかで引き際を見定めて、死なないといけないのかもしれない。無論こんなこと、今考えるべきことでは決してない。しかし、人は永遠の事柄を忘れる。永遠を離れて、移りゆく世に浸って忙しく生きることが本当に大切である。老いと共にそのことも忘れてしまいそうな気がする。そのとき醜くなった自分に恥じることができるだろうか、あるいは年を重ねればよく思うように、あれは若い頃の理解の仕方だった、人生はそれだけでもない、ということを思うようになるのだろうか。それこそ、最近はそういうことを思わないでもない。私よりもずっと若い人たちを相手にしていて、自分にもそういう頃があったな、ということを醜く思うことが増えた。その醜さに開き直る、年を重ねて見えてくるものに真実を感じる、若い頃のものが間違いではないとはいえ、それは「十分ではない」と窘める。そこに、老害じみた自分の醜い正しさを思う。

 

それよりも、平日の昼間にこんなことを悠長に考えることのできる今の自分のあり方に、改めて幸福を感じる。ちょうど一年前の今日、今の勤務先の面接が予定されていた。それが直前にコロナになって、一度は破綻した。色々あって再度機会を貰い、そうして今の職にありつけた。このあたりのことは、適当に遡って読まれたい。(無論、読まなくてもよい。)

仕事をするということを、改めてしみじみ感じるし、人間として生きるということを、何度も思い直す。

もちろん今の特有の辛さもあるし、今後の心配も山積している。しかし、それは贅沢な悩みであって、少なくとも一年前の自分には、到底思い描くことのできなかった代物だ。

仕事中、職場から見える景色や自然を眺めるたびに、ああ、本当によかったな、といつも思う。これがいつまで続くのか、どのように変化するのか、もっとよくなるのか、それともこれが人生の最後の輝きになるのか、それは分からない。

ただ、多くの人や運命に恵まれていることだけは自分にとっては確かであるし、そこで感じている輝きがたとえ誰かにとって癇に障るものだったとしても——そういう可能性を、いつも自分は思わないではない——、それで今感じているこの輝きの価値が否定されるということは、無いような気もする。それ自体は一毫も否定されないと思う。そういう価値に泥を塗り、醜く引き摺り下ろそうとする人がどれだけいようとも。

 

現実の構造というものは、矛盾的自己同一である。それは価値否定を含む。西田はそこに「悪」を見る。しかし、価値否定というのも、単純な相対性や現象性によって引き起こされると考えられるなら、それは最初から価値らしい価値でもなかったのではないか、という気もする。価値否定というのは、もっとニュートラルな意味を持っていなければならない。つまり、永遠の価値でさえも、それの前ではあまりに脆く崩れ去ってしまうような、そういう否定性を意味していなければならない。矛盾的自己同一というのは、そういう意味での価値否定の意味を持っていなければならないと思う。単にある一つの価値を相対化して塗り替えてみたりするような否定性は、永遠の価値というものを最初から永遠として捉えていないのではないか。

だからこそ、イデアというものをもっと真剣に考えてみなければならない。これも一つの「永遠」を気取った——すなわち簡単に塗り替えてしまえるような——くだらない主張にすぎないのかもしれない。多くの人が存在する中で、突出して目だとうとするある一つの杭にすぎないと思われるのかもしれない。だが少なくとも私は、これが単なる一個人的な思想の表明でもないということを自覚的に確信している(だとしても、人はこの確信自体を一検体的にしか見ないかもしれないが)。もっとも、その確信こそがイデアの正体なのかもしれない。その確信も、矛盾的自己同一の現実の前には、あまりに脆く無へ消えていくのだから(だから矛盾的自己同一というのは、まったき現実なのであり、現実という言葉の重みを引き受ける論理であり得る)。

 

昔から私は、移ろいの中で永遠というものを見ようとしていたような気がする。山中の田舎で屋根に登って雲を見たり、誰もいない画廊でいつまでも同じ絵を眺めているのが好きだった。それは別に外へ向けての飾り立てではなかった。むしろ誰も来ないでほしかった。ずっと一人でよかった。

けれども、そこで一人で味わったものを独り占めしていられるほど、私の器は大きいものではなかった。感動は、すぐに私から出ていきたがる。私はよく人に話した。

 

この拙い記事も、結局そういう類のものなのかもしれない。私は誰かに話したい。が、別に私の話として聞かなくていい。学者と呼ばれる身分になっても、やっていることは変わらない気がする。