古都の道場 西向き間借り

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感傷について

話題にもなった『フランス語で読む哲学22選』の見本を、少し前に知人から貰った。

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哲学系をやる学部生院生にもいいアンソロジーだと思った。

ドイツ語でもこういうのはあるのだろうか。カント、ヘーゲルフッサールハイデガーカッシーラーあたりを入れるだけで受容はあると思う。個人的にはヴィンデルバントの Präludien を入れて欲しいが。

ラテン語ギリシア語でも、こういうアンソロジーができたらもっと古典語も盛んになるような気がする。編集が大変だが、聖書とかでそういうシリーズが出ているのを見たから、不可能ではないようにも思う。

 

特に末尾にコラムがついていて、こういうのは本当にありがたいなと思った。

ラ・ロシュフーコーの『箴言集』を中心とする暗唱材料の提供は、おそらく哲学みたいなものに好奇心をくすぐられる層にはいい刺激になる気がする。自分も実際一つ一つ暗唱できるように練習しているのだが、飾れる言葉を暗唱するということは、そのまま教育的だなと思う。

その中に、次のようなアフォリズムが収録されている。

 

Les petits esprits sont trop blessés des petites choses ; les grands esprits les voient toutes, et n'en sont point blessés.

 

要するに「器の狭い人間は些細なことでとても傷つくが、器の大きい人間はそれらをすべて見通しながら、些細なことに少しも傷つかない」という意味である。

アフォリズムにケチをつけるのはそれこそ le petit esprit だが、blessé ということには、petit も grand も関係ないのではないか、と思ってしまった。器の広い人間も、傷つくときには平等だろう。

「すべてを見通す」というところが引っかかりかもしれない。

すべてを見通すということは無敵になるということではない、むしろ自己の有限性の自覚でなければならない。これは逆説的に聞こえるかもしれないが、我々人間がことの摂理を直観しても、我々はどこまでも有限である。それを十全に再現する術も、真に大なる宇宙においては断片にすぎない。すべてを見通す人間がもし les grands esprits と呼ばれて差し支えないなら、彼にはその上「自らが行い得ることの非力さ」が同時に見られているはずである。人は人を赦し得ない。根源的な罪悪を赦す可能性があるのは神だけである。

自分が思う les grands esprits は、むしろどんな些細なことにも自己の非力さが自覚されて、その都度繊細に傷つく人間ではないかと思う。それはいちいち卑屈になるという意味ではない。汝の非力が私の非力なのである。卑屈や自嘲にはまだ「自己」が残っている。自己の力が予想されている。そういう力が一切否定されたところに、人間の有限性というものが現れてくる。それはもはや「傷つく」と言うべきでもないのかもしれない。感傷という方が多くの理解を得られるのかもしれない。

 

自分はラ・ロシュフーコーの文脈を何も知らない。ただ、単なるアフォリズムとして指示されている意図くらいは理解しているつもりである。

対象論理的に見れば、これは一つの真理であるかもしれない。しかし自己自身を見るということから考えると、素直に首肯しかねるところがあるように感じられる。