古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

分かり合えないことと芸術

前の記事を読み返して、我ながらよく描けているなと思った。自分は、誰に向けて書くでもなく、永遠に向けて、しかし外へ自分を描くということをするときが一番ものごとをちゃんと描けるような気がする。それは特定の個人に向けたメッセージではない。人間に当てられたメッセージであるかどうかも怪しい。しかし、それは文章であるからには、誰かに読まれることを欲している。不気味な有象無象に対してではなく。宇宙の姿を自然言語で描きたいのだろう。

 

自室で缶ビールを飲む。

唐揚げとオードブルをつまむ。パソコンに向かう。

 

結婚してからこういう過ごし方はめったにしなくなった。妻とご飯を食べるか、仕事の合間に研究室や食堂で食事をとるかばかりで、一人でパソコンに向かって晩酌するという機会自体がめっぽう減った。

 

家族ができると、詩的に物事を描く機会は失われていく。生活自体が幸福の絶対値になっていくからだ。

生活を超えたものの話は、あまりしない。なんとなく気恥ずかしいし、日常のどうでもいいことの報告だけで、なんとなく満ち足りた様な気にもなるから。

ふとタバコの匂いを懐かしんだり、星空を無窮に眺めたり、音楽を通じてその世界を一人占めにしたりするような、そういう独占的な鑑賞は、隣に気心の知れた人間がいる空間ではできない。それは常に人と分かち合われるものになってしまう。

「タバコなんでやめたん?」

「ああ、すごい綺麗。あそこにオリオン座ある」

「あの曲きいた?めっちゃいいよな」

こういうやりとりはそれとしていいものだし、絆というようなものを感じる。でも、タバコの匂いや星空や音楽は、残念ながら絆とは無縁であり得るし、絆よりももっともっと高尚な何かであり得る。

 

だから、別に家庭に不満があるという話をしたいわけでは決してない。

でも家庭は、往々にして社会的な役割の中で成立している。共働きでへとへとになっている中、どちらがどれだけ家事をするか。家事をする方が家族的であるし、その意味で社会における称賛の地位は高い。家族であろうとするとき、そこでの「役割」をこなすことは、内政的に度外視できない。

突き詰めて言えば、家族であろうとするとき、そこでの出来事はすべて「家族のもの」となる。買い物帰りに二人で見た夕景も、電車の中で面倒な客が騒いでいたことの共有も、すべて「家族のもの」として決済される。拡張されたプライベートは、もはやプライベートではないのに、プライベートという名前で上書きされている。

 

この「もはやプライベートではない」と言うときの「プライベート」の意味。ここに芸術の可能性がある。だから家族を大事にするということは、一般に芸術的な審美性を失うことであり得る。

 

このように考えてみると、そういうふうに鑑賞することができるというのは、「分かり合える他者がいない」ということが極めて重要な条件になっているのかもしれない。

タバコの匂いを懐かしむときには、私はそこに学生時代の多様な思い出を嗅ぐ。ライブハウスの喫煙所、飲み屋——あの頃はタバコを吸える飲み屋が普通にあった最後の時代だ、バイト終わり、深夜の散歩と感傷。そういうものが全部その匂いの中に秘められている。その全ては、決して他の誰かと共有できるものではない。

星空を見た時の感動も、多くの人にとってはただ綺麗を眺めること、ただ星座を答え合わせすることにすぎないのかもしれないが、私にとっては全宇宙が動いている事実の中に私という人間が生きて動いている、その自覚の末の感動なのである。パスカルの見たものがそこに流れ込む。誰が人間のmisèreを、星空を眺めてわかり合えるだろうか。音楽にしてもそうだ。誰のものにもならない、私にしか映り込んでいないものがあるからこそ、それはエモさを創る。

 

鑑賞それ自体が制作であるという意味において、鑑賞は芸術活動である。こうした鑑賞は、そのように映し出されたイデアを、外へ出すことへと我々を動かす。この文言が現に綴られているということが、そのようなイデアが表現として私の外へ出ていくポイエシスである。西田のポイエシス論にもそういう意味がなければならないと思っている。

 

 

先週記事を書いてから、体調がどんどん悪くなって、水曜に風邪で仕事を早退した。

その足で医者にかかると、幸いコロナもインフルも陰性だったが、帰宅して休んだらそのまま三日寝込む事態になってしまった。ようやく昨日ほぼ全快になり、今日は休日出勤した。

 

今朝、今度は妻が熱を出してしまった。明らかに私のが移ったのだろう。悪いことをした。早めに仕事を切り上げて帰宅し、色々済ませて寝かせた。それで今というわけだ。

 

この流れでこういう内容の記事を書くのは、なんとなく薄情な気がする。たまたまそういう気分になったから稿を起こした、それだけだ。別に誰かに分かってほしかったわけではない。共感してほしいわけではない。当然批判なんて御免だ。的外れもいいとこで、勘弁してほしい。これは「分かり合える他者がいない」から書けたのである。

 

本当は、酩酊にYoutubeでゆっくり曲をきいていて、なにかが見えた気がして起稿した。

書いているうちにそのなにかも忘れてしまった。

それは外へは出ていかなかった。そのまま私の中で消えていった。

それは無念だろうか、だとすれば私はあまりに淡白な気もする。ビールの酔いと現実の往来で、見られていないまでも、素通りされていったなにか。さらば。