古都の道場 西向き間借り

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推論と直観

デカルトの『省察』を読んでいて、現代人の日常についてふと考えた。通俗的な現代人に欠けている知的習慣とは何だろうか、それは推論ではないか、というようなことだ。

 

「推論」よりも「推理」という言葉が馴染み深いのは、ミステリー小説や漫画の影響力にもっぱらあるだろうが、当然そこには物語に特有の飛躍があり、論理的推論と呼ぶべきものとは隔たりがある。

 

推論の能力というのは、観念や概念を通じて、物理的現実の世界から離れることでもある。それが結局は、自分の世界というものを拡張することになるのであり、そういう世界の形成、延長が21世紀人類の大きな知的課題でもあるように感じる。

それは妄想とも違う。ファンタジーに放埒に世界の中に世界を新たに作ることは、それ自体特記すべき事柄ではあるが、世界の中に世界の形を与えることにはならない。それは別の能力であると考えられる。世界の形を捉えるということはどういうことなのだろうか。

世界の形を捉える推論は、純粋に知的な営為でもあり得ない。そこには世界の直観がなければならないからである。しかし、形を捉えることが同時に世界の新たな直観の契機となるような意味も、人によっては見出される。

知的な活動というのは、現今大いに限定されて考えられている。勉強して、新しい知識を身につけていくことのみが知的な活動というわけではない。概念、判断、推論という古典的な論理学の基礎を考えるときに、推論というものの役割を今一度考えて見直すことも大切なのではないか、という気がする。