古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

四月の進捗

新年度の一月目がまもなく終わる。以前の記事にも書いたとおり、出鼻の挫かれたスタートではあったが、概ね為すべきことを為し、もどかしいながらもそれなりに進捗を得ることができたような気がする。

 

大きなこととして、自動車の教習所に通い始めた。

別に車に興味もなく、仕事と研究でそれどころではなかったから、この年までずっと取らずに来てしまった。生涯無免許でもいいかと思っていたが、昨年家族に大事があり、いざというときに免許が必要であるということをまざまざと感じさせられて、仕事を辞めたら免許を取るかという気持ちになった。

そういうわけで、あまり前向きな、それこそ運転したい!という希望を抱きながらの入校ではない。仕事をしている限りは、やはり免許を持っていると便利は便利で、そういう場面に関わる機会も多かった(それでも自分の周りの同僚を思い浮かべてみると、持っていない人もまあ多かったなという気がして、思わず苦笑してしまうが)。そちら側に足を突っ込んで見えるものもあれば、一方で研究周りの人々はむしろ運転に消極的である。研究室の同僚はみんな免許をもっていないし、環境倫理を研究している知人は明確に「自分は乗らない」という態度をとっていた。地球環境や近代人の問題を射程に研究している人々であれば、自然と「技術への問い」が促進されるわけで、それもまた一つの成り行きなのである。

運転免許を取るということは、路上で人を跳ねる、車を擦る、刑事責任に問われるという諸々の可能性の重荷を背負うことであって、そういうところをまず見てしまう人からすれば、運転に積極的にはなかなかなれないところがあると思う。自分はそういうタイプだ。

だが運転することは楽しい。物理的な意味で世界は広がる。そういう前向きなところが勝つと、「免許を取りたい!」という気にもなるのだろう。行けなかったところに気軽に行けるようになるのは実生活のあり方を大きく変える。現代の生活において運転手にならなくとも同乗者としてその益を受けるということは珍しくない。いくら「自分は運転しない」と言っても、タクシーや知人の車を利用することは十分あるわけで、そういうケースはある意味では交通を他に使役させているという見方もできる。免許を取って引き受けるリスクのことばかり考えて「取らない乗らない」という意志決定をしているとしても、自分が法律上の責任を他人に転嫁している側面だってあるわけだ。無論こういう見方は捻くれているし、だからどうということでもない。ただ、運転できるということは、そういう意味ではむしろ自分自身を自分自身で引き受けるということと接点を持っているのであり、文字通りAutonomieとして一つの「自律」の意味を担っているのである(運転にここまで哲学的な意味を読み込むのも流石に馬鹿げている)。

いずれにせよ、決して運転に積極的とは言えないなりに、込み入った経緯で車校に通うことになった。今日一段階の効果測定を通って、あと技能一時間と一段階の検定でとりあえず、というところまで来た。それなりに早い方ではないかと思うのだが、これは確かに仕事をして研究もしながらだったらまず不可能だった。免許を取るのも楽ではない。路上で見かける運転者がすべてこういう経験を経てきていると思うと、立派だなあと感心する。教習生活も腹を括って為すべきことなのだ。

 

腹括って生きるということも、括る腹もなく雑念と生きるということも、自分にとっては両方大事である。腹を括るということを示すのに、自分にとってこれ以上の表現はない。「決心」とか「決意」とか「覚悟」とか、そういう熟語では不十分な気がする。身体をかけて生きるか死ぬかという想いを持つということは、「心」「意」「覚」とかいった精神的なものだけではどうにも満たされない。腹を括るという表現が好きだ。どうしようもない窮地に立って勇むという感じがする。武道家の端くれとして、刃に身を立てるようなこの感覚の前では、意志もまた竦むところがあるように思う。

 

つらつらと適当に書いてきてしまったが、フッサールや西田を進めたり、ゲラを収めたり、事務周りを整えたりといろいろがんばった。あとの不安は来月以後のあり方である。五月病から梅雨の憂いまで、為すべきことを為さねばならない。