古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

廣松渉と西田、田辺

年内の外向けの仕事が一応一通り片付いて僅かながら落ち着ける時間がとれたので、買ったまま積まれていた廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』を少し読んだ。

廣松は最近なにかと縁があって、少しずつ書架に本が増えてきている。『事的世界観への前哨』『新哲学入門』、あとは翻訳でマッハ『認識の分析』、マルクス・エンゲルスドイツ・イデオロギー』。

別に廣松哲学に深い関心があるというわけではない。自分の場合、もっと別の角度から廣松を読みたいという意図があるし、実際そう読んでいる。これについて少し書く。

 

「認識論の新生」。これが廣松の一つの大きな主題であると言ってよいなら、この課題のために薬籠された思想のほとんどは、1910年代に西田幾多郎が『自覚に於ける直観と反省』で着手したものであった。読んだ序章に絞って言えば、『世界の共同主観的存在構造』に蓄積されている思想潮流はマッハ主義、現象学、新カント学派、ハイデガーマルクス主義、デュルケムなど、多岐にわたる。当時の西田が扱ったのは前三項だったが、他のものもその後直接間接に触れられることは読んだことのあるものであれば分かるはずである(デュルケムはどうだろう、タルドへの直接的な言及は覚えているが)。とにかく自分にとって面白いのは、マッハ主義、現象学、新カント学派を網羅的に扱おうとする廣松の姿は、1910年代の西田の悪戦苦闘とほぼそっくりそのまま重なるということだ。もっともマッハ主義に限って言えば、これは同時代の田辺元の方がよっぽど専門的に扱っていた。当時の西田、田辺を留保付きで一括りにすることが許されるなら、西田-田辺と廣松の課題は同じような源泉から湧出しているということができるわけである。

序章の最後に廣松はこう述べている。

認識論は、しかし、畳上の水練であっては無意味であるという以前に、当のメタ・レベルの考究そのものの権利づけを必要とする。すなわち、当の認識論的省察そのものの真理性を権利問題 quid juris の次元で基礎づけることを必要とする。このゆえに、悟性的反省の次元にとどまっては無限退行に陥る。認識論的省察は、われわれにおいても、「即自かつ対自的な考察……自己みずから自己を吟味し、自己自身に即して自己の限界を規定し、自己自身の欠陥を指示しつつ進行する途ゆき」としてヘーゲルが定義した意味での「弁証法」を措いてはありえない。(廣松渉『世界の共同主観的存在構造』岩波文庫、2017、p. 40)

このような課題は西田-田辺、とりわけ田辺が言いそうな話である。実際田辺の本格的な弁証法受容は、新カント学派的な「理念」による権利問題的処理によって行き詰まらざるを得なかった「自覚」の不完全さを乗り越える一つの転換点になっている。

当時私を支配した論理的思想は主としてマールブルク学派の新カント主義のそれであつた為めに、私の弁証法研究は専ら此立場に立ち、弁証法の論理として有する特色を取出して之を分析批判し、それが純粋論理の立場を如何に超脱し、其成立基盤として如何なる超論理的非合理的なるものを必要とするかを明にするといふ方法を採つた。これは今にして思へば、ヘーゲルの極力斥けた悟性の立場を固執して外から弁証法論議するといふ所謂レゾンヌマンに外ならないのであつて、到底弁証法の理解に徹する能はざる抽象論であつたことを告白しなければならぬ。(田辺元ヘーゲル哲学と弁証法』序:『田辺元全集』第3巻、筑摩書房、1963、pp. 77-78)

もちろん、日本哲学の時代的背景を考える上で戦後日本哲学に生きた廣松の足場と科学哲学の黎明期を経てヘーゲルマルクス研究に向かった田辺の足場は全く異なると言わなければならない。だが、この問題はさしあたりそうした時代的制約を抜きにして読むこともできる。

廣松の文章は仰々しい。しかし解説の冒頭で熊野純彦が述べてもいるように、別にこの著書はそれほど「難読」ではないと思う。このように言えるのは、廣松の言う「認識論の新生」を自分なりに引き受けた経験がその人にあるか否かということが大きな要因である気がする。事実熊野氏は『西洋哲学史』において——まさに「破産を宣告されたわけでも、況や内在的に克服されたわけでもなかった」(廣松、p. 26)にもかかわらず突然停止してしまったところの「認識論」の流行を担った——新カント学派にも丁寧に触れている。そういう土壌がある人にとっては、認識論の具体的な課題を遂行するための概念装置は(これこそがまさに「難読」の種であるのだろう)、特に重荷とはならない。

言ってしまえば、廣松の問題意識は1910年代の日本哲学史において激烈な仕方で取り組まれた認識論に再読を促すものとして読むこともできる。膨大な蓄積のある西田哲学の研究においても、新カント学派との関係性の指摘はどうしても消極的であったように思われる。ゆえに「自覚」から「絶対無の場所」が必然的に問題にならざるを得ないことについての根拠は、十分解き明かされているとは言い難い。後期においてもずっと伏在するはずの認識論の問題は、『自覚に於ける直観と反省』当時の「時代の流行」として処理されてしまいかねない側面がある。はっきり言って「自覚」は「自己が自己を写す」という定式から押し進めて「自己が自己を見る」というようにも示されるように、「見ること」=何らかの意味で知ること、つまり認識の問題に深く関わっている。だからこそ西田の「自覚」は、前期から一貫してカントの「超越論的統覚」との関係で論じられる側面があるのだ。しかも西田の場合は、そのような概念的「自覚」それ自体の自覚をも包摂している。つまり「西田の自覚概念とは何か」と問うような自己意識の自覚をも可能にするような厳密な意味での「自覚」を取り扱っている。ここに認識論的な徹底性がある。廣松の弁証法導入も、西田が田辺のヘーゲル研究に並走する形で『無の自覚的限定』から押し出し始めた弁証法も、このような文脈で理解することができるし、理解しなければならないだろう。

とはいえ(というよりだからこそ)、同様の源泉から廣松と西田-田辺がそれぞれどのような受容をしたのかを単純に比較する、というのはあまり意味のあることとは思えない。以上のように源泉の重なりだけ指摘すればさしあたり十分なのであって、むしろ我々が考えなければならないのは、「認識論の新生」という課題が現在から見て最近の廣松においてどういう結論に落ち着いたのかということ、西田-田辺における認識論的視座がその哲学においてどのような地位を占めるのかということ、日本哲学史という全体のスケールから見て、ここにどのような連続性、関連性を認めることができるのかといった事柄の方だろう。そこに戦前-戦後日本哲学の一つの架橋可能性があるように思われる。