古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

於てあるものと完結性

現場で働いていたときから思っていたが、「普通は」我々は自己の存在それ以上に遡って自己を基礎づけようと考えることはない。「自分とはなにか?」という問いかけが直ちに「この私はどういう人間か」という問いにすり替えられてしまうのは、ごく自然な推移である。

 

「自分とはなんだと思いますか?」という問いかけに「自分」という概念の奥行きを見る第一歩は、「自分」が各人にとっての「自分」であるという意味で、個人的なものと一般的なものの二重性を有するということに気づくことである。

「私ってどういう性格なんだろう」とか「私はこういうものが好き(な私)だ」とかいうことを考えるのはオーソドックスだが、既にかなり限定されたところから出発している。そうではなくて、「まず自分と一言で言っても、この私自身のことなのか、それともAさんならAさんの、BくんならBくんの自分のことなのか」から考えられるということは、それだけ広いところから出立しているということである。そこではなおも「他者」と「自分」が切り離されて、「他者にもあるはずの彼自身としての自分」と「他でもない自分」の差が意識されるし、「他者」を自分と同一視するということは、分別ある人であればいくらかためらうところもあるだろう。もちろん感情移入とか、そういう問題も考えることができるわけだが、自分はやはり個々人において閉ざされているし、その意味でモナド的でなければならないとも考えられる。自分はこれを「完結性」とひとまず言っておきたい。現今はよく「個人と言えども他者との干渉なしにあり得るものではない」という独立自存の実体理解を破壊する方向で動く相互浸透的関係重視の考え(便宜的に「関係説」とする)が取り上げられるが、完全に相互浸透的流動的ならそもそもいかなる区別も存在しないわけである。やはりそこには閉鎖性、完結性というものがなければならない。

そして閉鎖性や完結性は、関係説の立場から見れば不完全で欺瞞的な、擬似的なものにすぎないという見方がなされる。完結している「ように見えるだけ」という理解がそこではなされるわけである。しかしそれが擬似的で二次的なものにすぎないとすれば、完結性を志向する我々のあらゆる営みは単に擬似的なものにすぎないということになるし、そこでは完結性という概念は否定されなければならない。あるいは完結性はレアルなものではなくてイデアールなものだとも考えられるだろうが、完結性がたとえ一時的であっても実感を伴う仕方で解されることがあるとすれば、それのレアルな可能性は問い質されなければならない。

現に我々の自己というものは、「私はこういうものだと思っている」という指導原理によって突き動かされる場合に、単にイデアールなだけでなくレアルな仕方で(現象学的に言えば作用的に)働くわけである。我々は「普通」、そこに各個人というものを見る。そこに各人の政治性というものを見るし、別の言い方をすれば各人の嗜好や方法、アイデンティティなるものを見る。それが現代において「多様性」という言葉でまとめられるものの内実であると自分は思っている。「多様な仕方であれ!」ということは各人が各人的な仕方で群生するということであり、多様性の尊重とはそのような群生に対して首肯することである。しかしそこには必ず政治的な闘争が起こる。ある個人の嗜好や方法、アイデンティティに基づく「生き方」は、どこかで別の個人の嗜好や方法、アイデンティティと衝突する。元来政治性とはそういうところにある。だから無条件的に「多様性」を持ち出す言説に忌避感を覚える人も少なくない。そこではそもそも「多様性」は何に基づくかということが問われていないからである。

 

しかし多様にあるもののレアルな状況はまずは完結的に考えられなければならない。自己充足的であるから闘争にまで発展するような「生き方」になるわけである。自分の政治を守るというところに闘争がある。多様性社会において多様に生きるということは、常に自己を危険に晒しながら生きるということでなければならない。それは鋭利な精神を養うことであり、自己防衛のために他者を攻撃するという世界で生きるということである。

 

いずれにせよ、そこでは自己というものがまだ掘り下げられていない。その完結性は否定できないし否定すべきではない(この点で単に関係説的な還元は不可能である)。ただその外部が同様に存在するということを考えなければならない。完結しているものはなにも精神的人格的モナドに限られない。公理主義的体系、学問一般が(もはやそう真面目に信じる人もいないと思うが)そこに結実すべきであると考えられるような体系性も、完結している。一般に完結している、自己充足的であるということが一つの強みであると信じられている。ただ、自己充足的であるということは、直ちに外がないということではない。モナドに窓がないとはいえ、窓の外にいかなる世界もないというわけではない(窓があるモナドなどを言う必要は一切ない、それ(=関係説)はもはやモナドではないし、モナドと呼ばなくて良い)。

 

於てあるものは閉じたものでなければならない、完結性をもったものでなければならないと思う。だから個物は於てあるものである。しかし個物の外が考えられないというわけではない。単にその外というのも、群生を生かす我関せずな平面ではないと思う。