古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

仮定法への拘泥と自慰

旧友とオフを過ごしてそのまま避暑地で仕事をさせてもらうつもりだったが、直前に体調に異変を感じて結局断念してしまった。

幸い特に体調が悪化するとかいうこともなく(ただ慢性的な怠さが少しある、多分軽い熱中症だと思う)、今日は一日ゆっくり休んでみた。往復のバスチケットもキャンセルした。

まず申し訳ない気持ちでいっぱいである。そして、「なんだかなぁ……」と漏らしてしまうような形容し難い想いがある。

 

本来は昨晩から今週末の日曜までの数日間家を離れる予定だった。久々に気のおけない人たちと遊んで、そのまま田舎のお家で数泊させてもらい、いくらか原稿を進めたりする。そういう予定だった。そのために先月末から色々詰めてきたといっても過言ではない。

だが正直に言えば、行く前から気がかりな点はいくらかあった。

こういう情勢の中、中枢に近い居住地から地方へ渡るのには勇気がいる。万が一、ということをどうしても考えてしまう。自分は普段から研究周りや教育の仕事等、比較的多方面の人と関わっている(そしてスキャンダルにもなりやすい職種である)から、「もしもそうなってしまったら」をかなり広いパターンでシュミレーションせざるを得ない。また、自分が拡げに行くようなこともしたくない。もし行って何かあったとき、距離がある上に滞在期間が長いから簡単に帰って来ることができない。数日前から「最悪のケース」を色々と考え始めて、しばしば胃が痛くなることもあった。

それでも直前まで出発する気でいた。荷造りを全て終えて二、三時間後出発という頃に身体に異変を感じて、熱を測ると37度。ええ……と呟きながら軽い熱中症だと言い聞かせて氷枕で首を冷やしてベッド。休みながら考えがぐるぐる回る。出発ギリギリまで悩んでキャンセル。そういう流れ。

 

あまり偶然性の問題に興味がない自分でも、この決断には潜勢的な可能性を色々と考えてしまった。「あのときこうしていれば……」という仮定法は、その思惟それ自体が歴史性に於てあるという意味で尚も未来に拓かれている。仮定法それ自体への拘泥が偶然性の問題であるとすれば、それはその拘泥それ自体に救済を求めるという意味だと思う。だが自分はそれ自体に救済を求めるという在り方それ自体を批判的に見ている(ここが九鬼哲学に対する批判であり、同時に背後に潜む田辺哲学に対する批判である)。救済というのは自慰ではない。救済を自慰的に考えている、というとかなりキツいし的を射ているか怪しいが、九鬼も田辺もそういう匂いを漂わせているような気がする。宗教における救済は自慰ではない。これは声高に言っておくべきことだと思う。

偶然性が後悔の問題として前景化するということは、「あり得た他の可能性」への固執があるということである。まず哲学的には「あり得た他の可能性」の構成それ自体を問うということをしなければならない。苟もそれを実体化するということで説明しようとするのであれば、それはカントの時点で戒められるべきものということになる(もちろん偶然性は一義的に後悔によって前景化するというわけではないのだが)。偶然性というものがそもそもなぜ問題になり得るのか、ということを丁寧に考えてみたい。偶然論を専門とする九鬼研究者にはいくらか知り合いもいるが、このあたりぜひ聞いてみたい。

 

結局哲学の問題になってしまったが、そういうわけでお盆の予定が完全に切り替わった。

「今頃向こうでこんなことしてただろうな」という想像に固着することも拒絶することもないが、旧友とは会いたかった。これは統御された欲望だな、と思う。