古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

於てあるものと完結性

現場で働いていたときから思っていたが、「普通は」我々は自己の存在それ以上に遡って自己を基礎づけようと考えることはない。「自分とはなにか?」という問いかけが直ちに「この私はどういう人間か」という問いにすり替えられてしまうのは、ごく自然な推移である。

 

「自分とはなんだと思いますか?」という問いかけに「自分」という概念の奥行きを見る第一歩は、「自分」が各人にとっての「自分」であるという意味で、個人的なものと一般的なものの二重性を有するということに気づくことである。

「私ってどういう性格なんだろう」とか「私はこういうものが好き(な私)だ」とかいうことを考えるのはオーソドックスだが、既にかなり限定されたところから出発している。そうではなくて、「まず自分と一言で言っても、この私自身のことなのか、それともAさんならAさんの、BくんならBくんの自分のことなのか」から考えられるということは、それだけ広いところから出立しているということである。そこではなおも「他者」と「自分」が切り離されて、「他者にもあるはずの彼自身としての自分」と「他でもない自分」の差が意識されるし、「他者」を自分と同一視するということは、分別ある人であればいくらかためらうところもあるだろう。もちろん感情移入とか、そういう問題も考えることができるわけだが、自分はやはり個々人において閉ざされているし、その意味でモナド的でなければならないとも考えられる。自分はこれを「完結性」とひとまず言っておきたい。現今はよく「個人と言えども他者との干渉なしにあり得るものではない」という独立自存の実体理解を破壊する方向で動く相互浸透的関係重視の考え(便宜的に「関係説」とする)が取り上げられるが、完全に相互浸透的流動的ならそもそもいかなる区別も存在しないわけである。やはりそこには閉鎖性、完結性というものがなければならない。

そして閉鎖性や完結性は、関係説の立場から見れば不完全で欺瞞的な、擬似的なものにすぎないという見方がなされる。完結している「ように見えるだけ」という理解がそこではなされるわけである。しかしそれが擬似的で二次的なものにすぎないとすれば、完結性を志向する我々のあらゆる営みは単に擬似的なものにすぎないということになるし、そこでは完結性という概念は否定されなければならない。あるいは完結性はレアルなものではなくてイデアールなものだとも考えられるだろうが、完結性がたとえ一時的であっても実感を伴う仕方で解されることがあるとすれば、それのレアルな可能性は問い質されなければならない。

現に我々の自己というものは、「私はこういうものだと思っている」という指導原理によって突き動かされる場合に、単にイデアールなだけでなくレアルな仕方で(現象学的に言えば作用的に)働くわけである。我々は「普通」、そこに各個人というものを見る。そこに各人の政治性というものを見るし、別の言い方をすれば各人の嗜好や方法、アイデンティティなるものを見る。それが現代において「多様性」という言葉でまとめられるものの内実であると自分は思っている。「多様な仕方であれ!」ということは各人が各人的な仕方で群生するということであり、多様性の尊重とはそのような群生に対して首肯することである。しかしそこには必ず政治的な闘争が起こる。ある個人の嗜好や方法、アイデンティティに基づく「生き方」は、どこかで別の個人の嗜好や方法、アイデンティティと衝突する。元来政治性とはそういうところにある。だから無条件的に「多様性」を持ち出す言説に忌避感を覚える人も少なくない。そこではそもそも「多様性」は何に基づくかということが問われていないからである。

 

しかし多様にあるもののレアルな状況はまずは完結的に考えられなければならない。自己充足的であるから闘争にまで発展するような「生き方」になるわけである。自分の政治を守るというところに闘争がある。多様性社会において多様に生きるということは、常に自己を危険に晒しながら生きるということでなければならない。それは鋭利な精神を養うことであり、自己防衛のために他者を攻撃するという世界で生きるということである。

 

いずれにせよ、そこでは自己というものがまだ掘り下げられていない。その完結性は否定できないし否定すべきではない(この点で単に関係説的な還元は不可能である)。ただその外部が同様に存在するということを考えなければならない。完結しているものはなにも精神的人格的モナドに限られない。公理主義的体系、学問一般が(もはやそう真面目に信じる人もいないと思うが)そこに結実すべきであると考えられるような体系性も、完結している。一般に完結している、自己充足的であるということが一つの強みであると信じられている。ただ、自己充足的であるということは、直ちに外がないということではない。モナドに窓がないとはいえ、窓の外にいかなる世界もないというわけではない(窓があるモナドなどを言う必要は一切ない、それ(=関係説)はもはやモナドではないし、モナドと呼ばなくて良い)。

 

於てあるものは閉じたものでなければならない、完結性をもったものでなければならないと思う。だから個物は於てあるものである。しかし個物の外が考えられないというわけではない。単にその外というのも、群生を生かす我関せずな平面ではないと思う。

 

新年度

新年度が始まったが、早速出鼻を挫かれた。

家族が高熱を出してしまったのである。情勢が情勢なだけに、なかなか落ち着けない。いろいろと考えるべきこと、為すべきことがあって、当惑せざるを得ない。

同時に論文が行き詰まってしまった。月末にかけて査読結果を踏まえて修正をしていたが、どうもうまくいかない。

いろいろ考えることがあって稿を起こした。書きでもしないと落ち着かない。

 

一年前の年度の変わり目も、出鼻を挫かれた。

年度の転換自体がコロナで有耶無耶になったところもあるし、個人的な理由もあった。一年前のこの時期はとにかく一つの大きなプレッシャーがあって、一日一日の感覚としてはっきり覚えているものがない。勤務先も大学も動き始めたときにはまた別の問題が起きて、家庭的なところでも慌ただしかった。

そういうことを言い訳にするわけでもないが、どうしても三ヶ月以上原稿が書き上がらなかった。特に大きな成果につながるようなものでもなかっただけに、後から振り返ってロスを感じる元になってしまった。また同じようなことになる気がする。そういう直感が気持ちを落ち着かせず、今に至るわけである。

 

今回は査読の修正だったが、修正しているうちに諸々の点で考えがブレてきた。問題設定がうまくいかないので、この数週間ずっと手を入れては直し、アウトラインを書き、図式化し、白紙に戻し、ありとあらゆる手を尽くしてきた。が、結局ダメだった。

修正しているうちに、だんだん「この主題で世に問う意味があるのか?」という気がしてくる。力不足でもっと勉強してから詰めたい部分もあるし、修正した主題は前年度の研究成果と若干被っている。なにより、時間がもったいない。年度が変わって心機一転、いろいろなものを捨てて心新たに取り組もうと思っていたのにこれだ。やるせない。

 

卑近な話だが、こういうものは出せるなら出した方がいい。だが、出せないものをぐずぐずと未練がましくいじるのは頗る気が滅入る。論文というのはやはりある程度精魂込めて書いているわけで、書いたものを消したり方向性を変えたりするのは難しい。それなら新しいテーマで最初から組み立て直した方がいい。

 

悔しいな、と思う。が、気持ちは諦める方向に向かっている。時間を無駄にしている感が強いからだ。だが拘泥していても活路が見えそうとは言えない。むしろ締め切り直前までズルズルと悩み、また中途半端なものを出して、その上その徒労感によってなすべき仕事がその後もできなくなるような未来が見えている。

 

スパッと諦めて次の仕事をする。未練は大いにあるが、だからこそ少し距離をとって、また頑張りたいと思う。

 

 

 

Lambを読む

日曜日なので休んだ。

仕事を辞めてまもなく新年度が始まる。せっかくなのだから奮起して研究に集中する生活をしようと思って、今月はできるだけ意識しながら休んだ。明日から新年度を意識してきびきびやっていこうというわけだ。ただ、こうした塞ぎ込みがちな生活をいよいよ送るにあたっては、必ず意識的に休みを取らないといけない、ということを研究を数年やってきた人間として強く思う。「無理はできない」のだ。七日七晩研究に勤しむということは、ある意味理想ではあるが、それはできない。理想に反する現実に、却って余計に心を病みかねない。さすがにそれくらいは、自分のことながら分かっておかなければならない。

ただ、今までの「無理はできない」とはやはり意味が違う。本格的な研究に没頭し始めてからはずっと傍らで仕事をしてきたが、仕事をしているとどうしても早めにブレーキをかけることになる。「ちょっと疲れが出てるな」という感覚があると、喫緊の課題に追われていたり、何か手放せない用事があったりでもしない限り、有無を言わさず休養をとることになる。優先順位はもちろん研究が一番ではあるが、それはあくまで「仕事と関係ない時間」の下でである。仕事をしていると経済的には安定するし、そういう意味で心持ちも安らかではあるが、どうしてもルーティンの中で切り崩せないものとしてどこかで足を引っ張ることになる。

そういうものから自由になるということは、仕事を意識してかけていたリミッターのようなものがなくなるということである。多少無理が許される。「無理はできない」が「無理してもよい」といった具合である。そういうわけで、今後も土日のいずれかは意識的に休養日をちゃんと作って休もうと思う。

 

休む日は休む。休むことだけする。ここ数年は、これが意外とできないで困った。

「今日は研究はしないぞ!」と思ってベッドに横になる。寝る。気晴らしにネットを見る。ギターを弾く。そのうち、部屋のあちこちに積まれた本に、嫌でも目が移る。そうして気がつくと机に向かっている。そういうことがある。

別にいいのかもしれない。休んで活力があるのだから、動けそうな時に動くので問題はない。一番の問題はメリハリがなくなることだ。どこからが研究で、どこからが休息なのか分からない。そういうときが一番無為な時間を過ごすことになる。研究が進むわけでもなく、中途半端に疲労が抜けない、そういう感覚に陥ることになる。

だから、休むときは休むべきである。日常でも休憩を意識的にとるし、一日単位で休む日もつくる。この時代にこういうことを言っていると、怠け者の烙印を押されてしまうかもしれないが、自分の仕事は残念ながら自分にしか分からないので、そういうものをある程度不遜に押しのけてでも怠けるしかない。

 

たいてい朝起きていつも古典的な哲学書を読んでいる。今はフッサールの『論理学研究』を読んでいる。心理主義批判の巻だが、論理主義一般というものを考えるときに面白い。数学基礎論上の「論理主義」というものと、所謂新カント学派的「論理主義」というものを考えるときの、ちょうど媒介のような立ち位置になってくれるような気がする。で、読んだところを噛み砕いて、色々と書いてみる。そうしているうちにお昼になる。

朝一番に古典を読むというと、結構いろんな人に「よく朝からそんなヘビーなもん読めるな」と言われるが、ヘビーなもんだから朝のうちにコツコツやっておいた方が、案外読めるものだと思う。朝食を取りながらのそのそと一文一文読んでいくのが、波長に合っている気がする。古典は忙しなく読めないし、読むべきではない。そういう意味では朝が一番ふさわしい。

 

そういうルーティンも休養日にはできるだけ控える。少し先輩の研究者の方の生活などを少し伺うと、特に子供さんがいらっしゃる家庭では、時間がいくらあっても足りないようである。そんなのは多少想像力を働かせれば分かる話だが、あいた時間はとにかく研究!という姿勢で研究されている諸氏を見ていると、自分もやがてそういうときが来るのだろうか、そのときには今のような怠けた生活を恨めしく思ったりもするのだろうか、と考えたりもする。人生は難しい。

 

六時の寺の鐘がなった。毎度どこでならされているのか分からないが、古都の中心街の一つの風流とでも言えるだろうか。今日は一昨日届いた Charles Lamb の The essays of Elia を少し読んでいた。これは西田が「煖炉の側から」というエッセイの中で触れているものだが、彼が「ラムの諧謔はたゞのユーモアではない、諧謔の底に涙があるのだ」*1と述べているのを見て興味が湧き、仕入れた。

英語を読むということには、実はかなり本能的な抵抗がある。生来の語学の苦手意識というものがそこに圧縮されているからかもしれないが、純心にイギリスやアメリカに対してほとんど興味もなく憧れもない身としては、それは宇宙よりも遠くに感じられる。イギリス特有の貴族的な厳かさのようなものを勝手に感じているだけかもしれないが、アメリカの解放的奔放性にも入り込めないところがあるので、やはり英語一般にまとわりついたイメージと言った方が正確だろう。無論、厳かさとか奔放さとかは主観的で下卑た偏見かもしれないが。

 

ロンドンのイメージを最初に明確に持ったのは漱石の「カーライル博物館」を読んだときで、それも大学の一年か二年か、その頃だったと思う。英語を中学生以来やってきて、ロンドンのイメージがこの頃まで形成されていなかったというのも嘘みたいな話だが、実のところ他に思い当たる記憶がない。某有名探偵アニメの「ベイカー街」の表象は、自分にとってはアニメの世界でしかなくて、現実のロンドンのイメージにはほとんど結びつかなかった。よしんば世紀末のロンドンがすべてホームズ的なミステリーにとって代わられるのも、やや偏りがすぎるとも言える。いずれにせよ、ロンドンは自分にとっては倫敦であった。

 

以上の経緯からもつながる話だと思うが、英米文学には本当に明るくない。推理小説はそもそもあまり好んで読まないし、シェークスピアを一文も読んだことがない。いや、さすがにそれは嘘になる。大学に入学したばかりの頃、『ハムレット』や『リア王』が好きな文学女史とよく話をして、少しばかり手を出してみたりはした。だが、どうも教養以上のものを感じとることができなくて、結局今では何も覚えていない。当時としてはこういうことはよくあって、とにかく己の無知が恥ずかしいものだから、「古典」と言われる文学作品は手当たり次第読んでみたのだがたいていその面白さがほとんどわからず、それ以上身にならずに終わったものである。アメリカ文学もまったく無知に等しい。ご専門にされている先輩が、学部の卒業論文フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を扱ってらっしゃったので、それを読んだくらいだ。英米文学の歴史などもまったく分からない。自分にとって英米文学はあまりに遠い。

 

Lamb を今回紐解いてみて、改めてそういうことを強く意識した。例えばいかに自分がロンドンの表象を欠いているかということがしみじみ感じられた。が、それでも Lamb を読み続けてみたいという気持ちがなおあるのは、以上の経歴をもっている自分にとっては珍しいことである。そもそも『エリアの随筆集』は文字通りエッセイであって、所謂フィクションと言われるものとは異なる。フィクションには門番がいる。入れるか入れないかという問題がある。その点は数学に似ている。作られたものへの招待は、割合複雑なところがある。

その点、エッセイは基本的には短文の集積で、門番の検問を必要としない。別に通りたくないなら通らなくてよい、迂回して別の門から入ればよい、というようなところがある。自分の性には、そういうものが合っていると思う。また、エッセイにももちろん色々あるが、優れたエッセイというのはやはり、西田の言葉を借りれば「諧謔の底に涙がある」ようなところがあると思う。さくらももこのエッセイはまさにそういうものだと思う。無論「涙」というのも、単に悲観的なものではない。安っぽい同情を誘うものではない。およそそういう戦略的なものからは程遠い、人生のどうしようもなさを語るところに魅力がある。自分の底に徹して自分のことを自分のために書くということが、かえってある人にとってはその人自身よりも近い言葉を生むということもある。自己に徹すると他者につながるというところがある。

もっとも、自分は Lamb をよく読んでみたわけでもないから、エッセイというところに簡単にこういうことを結びつけるのは、それこそ安易かもしれない。Lamb を少し覗いてみて、どうやらそういうものがあるようだ、あるらしい、ということを嗅いだ。ただそういう話にすぎない。

 

本を読めるようになるためには、言葉を愛するということがないと厳しい。幼少期、自分はさくらももこのエッセイを何度も何度も繰り返し読んだ。漱石の『それから』も藤村の『破戒』も冒頭が強く印象に残っていて、そこに言葉としての愛おしさがある。

異国の言葉にもそういうところがなければならない。フランス語を学び始めたときに、師がランボーの sensation を読み上げてくださったことがあったが、そこで自分はフランス語というものに強く惹かれるようになったと思う。その言葉の意味ではなく、その言葉を愛するということがなければならない。Lamb は Children love to listen to stories about their elders, when they were children ; to stretch their imagination to the conception of a traditionary great-uncle or grandme, whom they never saw. という文から始まる小文を書いている。ここに門番のいない門がある。

 

 

*1:西田幾多郎全集』第12巻、岩波書店、1966年、p. 180

宗教的なものと現代

今日はWorkflowyの整理を少しして、方針を少し考えた。ギリシア哲学の本格的な勉強をする機会があって、せっかく仕事も辞めて時間もあるのだから今のうちに手をつけておくのもいいのではないかと思ったが、結局自分の今なすべき仕事に集中した方がいいと思い直した。今なすべき仕事を淡々とやること。それでいい。

 

それで、今日も手持ち無沙汰というか、どういう振り切り方をするかで少し惑った。この土日はそれでいいのだが、休むということができない。ギターを弾いてもドラムスティックを握っても「不足」を感じて練習をしてしまうし、何もせずにただ座っていても周りに積まれた本をつい手にとって中途半端に読んだりしてしまう。我ながら情けない。そういう自分を反省して、また色々考えてしまう。「閑暇」(スコレー)はやはり暇なのだ。自らの人生というものが迫ってくる時間であると思う。パスカル的なものをなお追究する余地がそこにある。そして、宗教の問題というのもそこにあると思う。

 

一方で、最近の自分はもっと俗人的なものを考えなければならない、ということも強く感じるようになった。俗人的という表現がふさわしいかどうかは分からないが、とにかく宗教的なものとか、人生問題とか、そういうものがある意味で遠くなってしまった「凡庸なリアルさ」の方に関心が向いてきたということである。正確に言えば、もともと自分の出立点というのはこちらの方であった。いつぞや書いたことでもあるが、そもそも高校生のときの自分にとって哲学というのは、「なんの勉強もできていない凡庸な自分が今感じているこの生々しいリアルさを説明できるような真理でなければ、真理とは言えないはずだ」という確信を頼りに参照軸にしたものであった。その意味で学科的な意味の強調された「哲学」にはとりわけ深い関心を持っていたかは怪しい。その正確な理解も怪しい。当時の若き自分は「哲学」を修めようと真剣に考えていたが、修めたものが学科的な意味での「哲学」として適切であったかは頗る反省の余地があるわけである。たまたま先日部屋を片付けていて、学部の頃の哲学のノートなどをみつけたが、およそ哲学の伝統的な問題というものをまるで理解していない薄弱な理解が目について、とても読めたものではない。「自分」というものについては人一倍真摯に考えたようではあるが、それでも当然「真の自己」とかそういったものではない。そこにはただ「自分の関心」と無理やりこじつけながら伝統的な問題を吸収しようとする痛々しい努力が刻まれていて、苦笑もできない。

 

これでも本人としては、青年特有の反骨精神というものが色濃く出たわけでもないのだから一層皮肉なことである。当時の自分は真面目に所謂「正当王道」な哲学を謙虚に勉強しているつもりであった。ただ、理解の仕方があまりに軽薄であった。「なんとなく分かることがある」というだけで始めた頃は盛り上がれるものだが、薄弱な理解ですぐ自分の問題に応用していこうとするところがあるのは、まったく基礎を欠いていると言わざるを得ない。今これだけ「基礎づけ」を自身の研究の中心に据えているというのも、ある意味自然な移りゆきだったとも言える。仮に自分の指導学生だったとしたら、やはりそのことを指摘するだろう。自分の恩師らもやはりそういうことを厳しく咎めたのだった。だから学部三、四年くらいの頃からは、とにかく「自分がそこに確かに立っていると言えるような足場」を強く求めたものであった。今振り返れば、学部の頃は極めて自由に勉強ができたが、およそ勉強というには自分の基礎的な力の不足を感じる機会の方が多く、コンプレックスに悩まされた時期でもあった。時代遅れかもしれないが、「煩悶青年」の自覚を持って日々を過ごしていたわけである。だから自分にとってはかけがえのない時間として記憶されているし、それは自分にとってなによりのノスタルジーとしてある。

 

まあそんなことはこの場ではどうでもよい。別にそういうノスタルジーを人に理解してほしいと思っているわけでもないし、自分のことを特に知らない人に分かると言われても困る。

 

とにかく、自分は色々なものに触れることができた。自分のような生来自信のない人間は、誰でも知ってる名前の売れた大学に行くよりも、地方の豊かで慎ましやかな生活の方がのびのびとものを考えることができたわけだ。人と生き、宇宙を仰ぎながら生きることが何よりの悦びだった。今の生活は宇宙を仰ぐということがない。宇宙によって孤独という生を感じるということがない。そこに根本的な郷愁がある。

 

そういう読み方をする人もいないとは思うが、念のために述べておくと、別に自分の故郷が宇宙だなどということを言っているわけではない。宇宙は我々を包んでいる。その意味ではいたるところが自分の故郷ということになる。それではそもそも故郷ということの意味もなくなるのである。宇宙を仰ぎ見る自分の心情がカントの述べるような「感嘆と崇高の念をもって心を満たす」ところの星の輝く空と近しいかどうかは分からない。別のものでもないような気はする。西田は寂しさのある日本海を眺めたという。そういうものが自分にとっては故郷の宇宙であるということは言えるかもしれない。宇宙は必ずしも仰ぎ見るものというわけでもなかった。田舎のコンクリートに寝そべって、一面の星空を仲間と眺めた。仰ぐよりももっと近かった。ああいう経験を郷愁と呼んでいる。

 

別にそういう話をしたかったわけではないのだがつらつらと書いてきてしまった。

本題に戻ろう。

 

「なんの勉強もできていない凡庸な自分が今感じているこの生々しいリアルさを説明できるような真理でなければ、真理とは言えないはずだ」という確信。これが自分にとって根強いモチベーションになってきたことは、おそらく間違いないと思う。西田哲学に惹かれる理由というのも、根本的にはそういうところにあると思う。所謂自然科学的世界観では、真理は我関せずに実在するとされる。我々人間の有限な認識によって帰納的に漸近線的にその認識の「正しさ」が確かめられていく、その仕事が自然科学の仕事であるというのは、やはり現代においてもあまり変わっていないようである。そうなると、我々が自然の認識について「誤る」ということはほとんど全ての場合に言えることになる。世界には「正しさ」が常に存在していて、その規範に照らし合わせて認識の正誤が確定する。この認識がロック的な素朴さを持っているとは言わないまでも、やはり一つの「作られたイデオロギー」であることは十分指摘できると思う。結局その「正しさ」というのは人間的なもののうちでまずは共有されるのであって、そこに「正しさ」を基軸とするヒエラルキーが成立する。つまり「正しい自然認識」を最も多く獲得している人間が成立することになる。そういう像を理想的に立てたらあとは全ての人間がその個々の自然認識の「正しさ」を獲得している数に応じて序列化するということが生まれてくる。難しい話ではない。我々はこういうことを学校教育で日常的にやっているわけである。もちろん個々の「正しさ」の精緻の度合いや優先順位も存在するわけだが、本質的には次元が拡張するだけで、いずれも高い-低いを軸にある程度並べれば済む。偏差値というものはそういう仕方で考えられる。言い換えれば、偏差値的序列化のヒエラルキーというのは「正しい自然認識」を外延的な集合と考え、我々一人一人がその要素をどれだけ共有しているか、言い換えればその部分集合がどれだけ全体に近づたものであるかを検見した結果であるということである。当然学校教育においては「正しい自然認識」なるものがそもそも多くの前提の上に成立した「コンベンショナルな正しい自然認識」であるわけだから、その内容は極めて多くの条件の鎖に繋がれている。この条件というものをあたかも「無いもの」であるかのように扱うと、シンプルでわかりやすい「序列表」ができあがるわけである。

とにかく「正しさ」を以上のように一種の自然の実在性として考えるやり方は、凡庸な仕方で歪曲化されやすく、そして我々の教育形態に関わるようなイデオロギーに発展し得る側面も持ち合わせていると言える。実のところ「正しさ」が自然の実在性のうちにあるという考えは、思弁的実在論などが挙げられるように、今なお一つの論点である。科学系の知り合いと話しても、彼らは自分のやっていることが諸前提の上に成立した蓋然的な知識の生産でしかないとは決して考えない。彼らは数式を駆使することによって、あくまで「客観的な」(この言葉を使うことが多いようだ)真理を追究している。そしてそれは正しいはずである。哲学の人間が彼らの方法を軽々しく「蓋然的帰納的」と称するのはあまりに傲岸であるし、誤認であるようにも思う。そりゃ科学者は哲学者の言い分を「詭弁だ」とも言いたくなるだろう。自然の正しさについて考えるには、もっと広い見方が必要だということになる。

ところで我々の自然認識は多くの場合もっと愚鈍で(私だけかもしれないが)、仮定的な考えから漸次発展していくという形態をとる。この点は、田辺の言葉を引用しておくのが手っ取り早い。

元来研究は常に動いて止まざる不断の生長過程である。今日到達せる結果も明日は更に止揚せられて次階の進行を媒介するのでなければならぬ。併し同時に昨日の思想も必ずしも全然否定せられるのではなく、部分的実質的には其多くが保存せられて、唯全体の抽象的なる立場が具体化せられる結果、新なる立場から新しき観点に於て観直されることを必要とするといふのが、研究の進歩に於ける常態である。却て現在否定せられる過去の立場が現在への媒介として必要であつたといふことが思想の発展には認められなければならぬ。固より抽象過誤偏見の当然清算せらるべきことはいふまでもないが、具体的に現在の思想発展を了解するには、此等の清算せられたものをも一応は考慮することが望ましい。*1

そういう意味では、「誤り」というのは弁証法的な契機である。「なんの勉強もできていない凡庸な自分が今感じているこの生々しいリアルさを説明できるような真理でなければ、真理とは言えないはずだ」という確信も、この点から一応説明することができる。ただ、それは「正しさ」に導かれているとも言い難いし、その意味で田辺の言説に全てを回収することはできない。田辺の考え方では、いつまで経っても「正しさ」は常に更新されていくということになってしまう。それだと「今の生々しいリアルさ」は十全ではない。この点でむしろ西田が必要になるわけである。なんの知識もない、なんの「客観的」正しさなるものも知らないということが、そのままに肯定されるということ。それは先ほど述べたような知的ヒエラルキーに干渉しない。田辺の以上の考え方はむしろ積極的にそこに参与していく。西田の場合、別に「向上心」的なものがないわけではないが、そういうものからある程度自由なところがある。

 

とはいえ西田はもっと泥臭いところがある。その後の京都学派の宗教的系譜を見ていると、自己の苦心とか不条理とかいったものがもっと削ぎ落とされて行ってしまうようなところがあるように思う。ある種の「境地」に行ってしまうわけだ。西田は確かに明らかに『無の自覚的限定』以後、異質な「境地」を積極的に語っていくようなところがある。『一般者の自覚的体系』で絶対無の自覚まで深化して、「裏から表を見ようと努めた」『無の自覚的限定』では、絶対無の自己限定ということが問題の中心になるから、必然そこにはある種の「境地」が前面に押し出されてくる。『一般者の自覚的体系』での問題に沈滞してから『無の自覚的限定』に進むと、そういうところで少なからず困惑することになる。しかしそれにしても、西田はそういう「境地」に全てを回収するということで落ち着くわけではない。むしろそこから全てが始まらなければならないという位置づけでそれを問題にするわけである。そういうところをあえて泥臭さと言っている。境地それ自体のある種の安寧や神聖を説くということはあまりに「清潔すぎる」のである。そもそも清潔とか不潔とかそういうものを包み込んだところが考えられるとはいえ、我々にとっての問題はむしろ清潔であるとか不潔であるとかいうことそのこと自体なのである。その意味では清潔とか不潔とかではなくて、という話がそもそもある意味で既に「清潔」なのだ。だから、もし境地の話が戸坂の述べたような「意味」の話になるのだとすれば、それはよくできた「最も高等な現象学」であるということになるわけである。西田の場合、単にそれだけとも言い切れないところがある。

例えば西田は『無の自覚的限定』で、絶対無の自己限定を定式化する際にアウグスティヌスなどを参照して「永遠の今の自己限定」という発想に至っている。それで、アウグスティヌスを参照してみると、なるほど「敬虔」な想いもする。「すべてを知りたまう神」。ライプニッツだなと思う。そういうところにシンパシーも覚える。

だが、そういう考え方に「落ち着けるはず」なのに「落ち着けない」というところが自分にはある。最も落ち着けるはずの宗教的境地というところになおも落ち着けなさということを覚えるということ。もちろんこれは、自分がそういう宗教的境地のような感覚を些末ながらも持ち合わせているという前提に立っている。これについても論じるべき点は多くあるわけだが、ひとまず割愛しておいて、「それでよい」はずが「それでよくない」という問題になるのは、やはり「他者」がいるからなのだ。自己の安寧は自己の安寧ではなくなるのである。

だから例えばライプニッツの世界観で特に面白いのは、我々がモナドとして予定調和の元にあり、全ての事柄がそこに表象される、その「全て」が十全に確保されているという「落ち着きどころ」がある点にある。一種の演繹的世界観と言ってもいいかもしれない。もちろん個物であるモナドは、すべてを十全に知ることはできない。すべてを知るのは神のみだからだ。なによりも「神は全てを最も善くなるようにしている」。ア・プリオリに全てを知るということ。そこに「落ち着きどころ」がある。

アウグスティヌスにしても、永遠を所有する神に、またそれに対する我々の「あわれさ」やそれに対する神からの「あわれみ」が語られるというところに、なんらかの意味での「落ち着きどころ」がある。

 

そういう「落ち着きどころ」が「落ち着けなくなる」ということ。そこに現代に他者と共に生きるという意味があるような気がする。多くの問題が語られる現代。環境問題、政治問題、倫理、教育、情報などの問題。そこに積極的に参与するというのは、明らかにア・プリオリな話とは——やはり——「別のこと」なのだ。そしてむしろ我々はそういう「歴史的世界」に於て生きているはずなのである。

 

「落ち着きどころ」が「落ち着けなくなる」ということ。宗教的なものと現代。永遠的なものと過ぎ去っていくもの。やはりそれを考えるというのが、自分の哲学なのだろうと思う。

人生問題以上の問題はない。しかし人生問題は、今ここに於て問題であるということでなければならない。しかもそれは自分一人の人生ではない。そこに矛盾がある。自分の人生が既に他人との関わりの中で生成されている。自己の安寧は既に他者の安寧に関わっている。にもかかわらず自己は他者とはどこまでも区別される。自己の人生は他者の人生ではない。そういう問題を考えなければならない。

*1:田辺元全集』第3巻、筑摩書房、1963年、p. 76

安寧に際して

無事に年度最後の諸々の仕事が片付いて、一週間が経とうとしている。

多くの人に気をつかっていただいたおかげで、ひとまず安寧に至ることができた、という感じだろうか。一時の安寧でしかなくとも、この機会はありがたい。

 

この一週間は、とにかくとっちらかった自室を片付けた。それでも本棚に収まりきらずどうしても積み上げられていく本を見ていると、本は以後決して減ることはなく増えていくわけだから、なんだか重たい気持ちもする。せめてあまり使わないものは使わないところに置きたいところだが、部屋にもそんなに余裕はない。師の家に行った時は一部屋余すことなく本一色だったが、あれは無理もない。博士号取得者の家はそういうものなのだろう。

 

とにかく手放しでじっくり休むという機会がずっとなかったから、この一週間はよく休んだ。手持ち無沙汰になるくらい休もう、と決めていたが、実際手持ち無沙汰になって部屋の片付けとかゲラリタッチとか色々してしまった。哀しい生き物である。

あとは査読論文のリタッチ(これが骨が折れるから、来週中頃くらいまでは手をつけないようにしている)、研究計画、細かいことが二、三残っている。この土日は基本ゆっくりしつつ、来週以降の予定を組んだりして過ごそうかと思う。

 

春は麗かに時が過ぎる。とりわけ来月からは一層自分の時間を引き受けなければならないな、と思う。

戸坂潤と戦後日本哲学

西田、田辺に次ぐ京都学派の哲学的重要人物は誰か、ということを問題にするとき、それは人によって(つまりその人の基底をなす見方によって)変わってくる。絶対無の哲学を宗教的なものとの関係性で考えようとする人は、おそらく西谷啓治を置こうとするだろうし、小林敏明のようにある種の精神分析的関係を読み込もうとするなら、父なる西田に対してカインである田辺、そしてアベルである三木という関係を考えることもできるだろう。和辻や九鬼がこの文脈から位置づけられるということをは考えにくいのであり、おそらく妥当な線はこのあたりではないかと思う。

自分は彼らの延長線上に戸坂や下村を考えてみてもいいと思う。とはいえ、戸坂と下村は並置するにはあまりに異なった哲学者であると言わなければならない。彼らに共通するのは京都学派における、否、日本哲学史における科学哲学の伝統の継承者であるという点である。西田と田辺をそもそも科学哲学者の系譜において捉えるというのは、今日決してメジャーとは言い難いが、自分は日本哲学史における科学哲学の系譜というものをいやしくも考えようとするなら、その端は西田、田辺にあると言わなければならないと考えている。

そもそも今日における科学哲学のイメージは、おそらくほとんどが英米分析哲学とフランスエピステモロジーといういずれも戦後に大々的に深化拡大したものに依拠している。もちろんその根源はいずれも戦前に根を下ろしているのであって、深い探究心をもつ研究者はそのさらなる根源を歴史に尋ね、19世紀後半の論理学やそれ以前の科学哲学の所在を解き明かそうとしている(例えばイギリス圏で言えばハーシェル、ヒューウェル、J・S・ミル、このあたりの人たちだろうか。ヘーゲル派、新カント派といったものにもこういう問題の所在が認められる。個人的にはジクヴァルトの論理学を目にする機会が最近多いのだが、そういう関心だと思う)。それはある意味では「世紀末」以前に〈一旦〉還ろうという共同意識を示唆しているのであって、そういう共同意識が広まるには十分な理由が認められるほど、やはりそこには期待される未知と蓄積があるわけである。そのとき改めて、所謂戦後科学哲学というものにおいて、戦前の科学哲学的なものとの連絡関係が現に何らかの意味で断絶ないし喪失していたという事実が浮かび上がってくる。

少なくとも日本においてこれは顕著である。我々は「京都学派」の一旦の終焉を1945年に置くことができる。なぜならその年に首領的存在であった西田が逝去し、また左派的であったとはいえ先鋭的であった三木戸坂が獄中死を遂げ、西田の後続の哲学者たちもまた戦争責任を追及されていくというあまりに急速な減退が見られるからである。もちろん戦後も田辺は生き残って哲学を続けるし、高坂や西谷といった所謂四天王の復帰や、影に潜みつつも批判的継承をなしていく山内得立や三宅剛一などを考えることもできる。その意味では、おそらく1995年の下村寅太郎の逝去を以て「京都学派」の完結を語ることが一層適切であるかもしれない。しかし例えば藤田正勝先生のように、その継承をさらに考えるということもできるのではないかという立場もあるし、実際下村の逝去と同年の1995年から日本哲学史講座が京大に設置されたということは、「所謂「京都学派」以後の京都学派」を考える機縁にはなるだろう。だがここまで考えていくと、そこに関係する人々にとっては、自己の存在をそういう偉大な(ものとされる)系譜の末端に位置づけて「安心したい」というなにか一種の陶酔的なものが介入するか、あるいはその反動が形成されることになるから、その限りでは自分はあまり考えようとは思わない。実際そういう「派閥」への憧れのようなものは、反動的に形成されてもまったく不思議ではない。昨今「東京学派」というものを考える動きもあるが、それを歴史的に基礎づけようとする限り、それは京都学派という「派閥」への反動形成の意味を完全に払拭することは決してできないと思う。それがどれだけ京都学派に対してオリジナリティを主張しようとしても(現に西田にせよ田辺にせよ(東京)帝国大学の出身であるわけだが)、そのような主張自体は結局どこか虚しいものに終わるような気がする。「京都学派」の歴史的基礎づけを戸坂に求めるなら、戸坂を京都学派に入れるのか入れないのかは一つの議論になるし、少なくとも「東京学派」も同様の問題に晒されるだろう。それでも「東京学派」というものを定立するには、やはり何らかの根源的な動機や意味があるのだとは思う。それは決して無用ではない。だが例えば、他ならぬ西田は田辺を京大に招聘する際に「京都大学は京都の京都大学にあらずして日本の京都大学なることを考へて居たいと存じ居り候」*1という態度で構えていたわけであり、まさにそこに「京都学派」は生まれたのだから、一個人としてはあまりそういう問題設定に深入りしようとは思わないわけである。もちろん、そういう一見「中立的」な態度自体こそが、一つの桎梏になっているということを自覚しないでもないが。

ただ、いずれにせよラベリングとして「京都学派」とか「東京学派」とかいうものが便利であるのは一定間違いない。そして、やはりこのラベルが引き起こすのは、一つには「戦前」と「戦後」というダイコトミーだろう。東京学派というものが、大森荘蔵廣松渉、湯浅泰雄、坂部恵、 井筒俊彦などの哲学者を表すものと考えられるとき、それはやはり戦後日本哲学という意味を否応なく持つことになる。特に大森が率いた言語分析哲学の傾向は、明らかに戦前の哲学と一線を画するという意味を持っているし、その意味で京都学派的なものとはあくまで異質であることを志向しているように見える。この異質的な自己措定こそが、自分が思うに、日本哲学史における科学哲学的なものの戦前/戦後断絶を象徴している。そのとき京都学派の哲学は、ほとんど「科学的」であるとは見做されない。それは科学とある意味で対極的な「宗教的」哲学である、という認識が定着する。そうなると、戦前の科学哲学なるものは結局宗教的なものに回収されてしまう「時代の産物」であって、我々はそれを克服しなければならない、という反動が形成されることになる。 まだまだ勉強不足なのでかなりテキトーなことを言っていると思うが、少なくとも今の自分の目には、戦後日本哲学分析哲学的潮流の形成というのは、戦争によって物質だけでなく精神的なものも破壊されてしまったあとの世界において、「真の」科学哲学を建設しなおすという課題が一つの動機になっているように映っている。だとすれば、それは意識的に断絶を作り出すのである。そこには、連続的な系譜というものから手を切るという意図が含まれていなければならない。

 

ところで自分は最近、もし戸坂が戦後を生きていたら、今日の科学哲学はまた少し形の異なったものになっていたのではないか、ということをよく考える。少なくとも戸坂なら、そういう断絶が起こったとしても自覚的にそれに解釈を加えて公に発表するくらいのことはしただろうし、そうでなくとも何らかのアクションは起こしただろう。西田が「場所的論理と宗教的世界観」の終わりに「新しい時代は、何よりも科学的でなければならない」*2と述べたことも、晩年の田辺の「内容も解らずに議論してしまった」*3とも評価される数理哲学にも、何らかの意味で科学的なものに対する態度が含まれていたと我々が考えるなら、戸坂の態度はいよいよ常に科学的であったし、このことは彼の「左派マルクス主義者」というあまりに大きすぎる看板によって覆い隠されすぎているように思う。この点では、自分は船山信一の説に乗っかりたいと思う*4。戸坂潤という人を、単に「唯物論」的な哲学を喧伝して左派運動に東奔西走した人と皮相に解釈する限りは、こういった側面は見えてこない。戸坂を読み直すとすれば——というより自分はそういう読み方をするし、そういう読み方以外多分できない、という意味なのだが——まさに彼の「空間論」以来の考え方から洗い直さなければならないだろう。

 

実際、彼の空間論の発端である「物理的空間の成立まで」には、西田田辺の課題の批判的継承という意味を読み込むことができる側面がある(このことはいつか書きたいと思っている)。彼はなによりもまずカントから出発した。この意味をよく考える必要がある。

 

 

 

*1:西田幾多郎全集』第19巻、岩波書店、1966年、p. 555。

*2:西田幾多郎全集』第11巻、p. 463

*3:林晋「田辺元の「数理哲学」」『思想』1053号、岩波書店、2012年、p. 213。

*4:「日本においては西田博士も田辺博士も数学又は自然科学を反省され又その成果を取入れられた。之は両博士の哲学の特色でもある。その伝統を引つがれた、いな最も尊重されたのは戸坂さんである、その限りこの方面での西田、田辺両博士の後継者ないし発展者は戸坂さんであつたのである。それに対し三木さんは自然科学には大して顧慮を払われなかつた」(舩山信一「論理家及び批評家としての戸坂さん」『回想の戸坂潤』三一書房、1948年、p. 204。

アカデミック・ライティングと高校教育

国際学会もあるし、いい加減真剣に勉強しないといけないな、と思い、初心に還るつもりでアカデミック・ライティングの本を一冊買った。幸い安く買えた。基礎的なことだが、基礎を疎かにはできない。生徒にも日々言っている。

大体のこの類の本がそうであるように、当たり前のことだが「なぜ研究をするのか、なぜアカデミック・ライティングということが重要なのか」という話から始まる。仕事から帰ってきてぼんやりこの項目を読んでいて、ふと閃くことがあった。

 

高校で国語を教えている身として日々思うのだが、「書くこと」は多くの生徒にとって遠いものである。我々のように毎日活字に触れ、なにかしら文章を書いて生きている人間とは、彼らはやはり根本的に異なった生き方をしている。

そういう彼らに「書くこと」の指導をするとき、多くの壁が生じる。もちろん「書くこと」の指導は、学習指導要領にバッチリ記載されているので、必要な指導項目であることは間違いない。だが「書くこと」それ自体の指導というのは実は極めて難しいし、多くの人は、どうもこれをごまかしながらやっているような気がしている(自分の周りだけかもしれないが)。

 

高校生が能動的に文章をしたためる機会は、意識的に教員側が作り出さなければ、決して多くはない。まして「打ち言葉」が主流な現代においては、「書くこと」の意義は素朴な観点においてはますます疑問視されている。そのうち「書くこと」もなくなるのだろうか。万年筆を大学ノートに滑らせて明治文語体で思索をまとめている時が一番ストレスなくものを考えられる自分のような人間は、「奇特な変人」で例外的なものとして処理されるのだろうか。

 

自分の例が些か極端であるとして、実際「書くこと」は様々な抑圧を受けながら平板化している。

小説や詩を書くことが「黒歴史」として忌避される時代である。ノートに書き残す自分の素朴な思いや感情の吐露は揶揄の対象になるし、そういう想いは「秘密」にされる。今は物語は直観的な漫画が主流だし、わざわざ「言葉」によってそれを表現しようとする人は相対的に少ない。そうした少数派ですら、やはり物語を書くということの一種の「恥ずかしさ」——物語は自己の欲望と関わっていると思う。こんなことは、ちょっと調べればフランス系の思想家が言ってそうなもんだが(リクールを私は知らない)、何かを夢想的に物語るということは何らかの意味で性癖を発露したいという欲望と無関係ではあり得ないような気がする——、その感情を抑圧する理性によって、他者の目から自身の作品を覆い隠すだろう。

そうなると、もう書くことというのは「オーソドックスな社会問題に対する自分の意見・主張」くらいしかない。つまり小論文だけが「書くこと」の主たる部分を占めることになる。そしてそれは、結局は一種の「アカデミック・ライティング」なのである。

 

もちろんそれは、大学進学を前提とする高校生には、やはり修めておいて欲しい技術ではある(これは大学側の人間からの視点だが)。しかし「書くこと」は何もアカデミック・ライティングだけに限定されてはいない。小説や詩だけでなく、我々にはエッセイや批評、散文もが許されている。こういう選択肢は、「書くこと」の指導においてはほとんど主題にならないような気がする。それはなぜだろうか。

 

そもそも「書く」というのは一つの欲求であって、促されたり規範化されたりするものではない、という考え方もある。なるほど、「自分の思うことを書きましょう」と言われても、特に普段からものを考えていなければ、書けと言われても書けない。「書く」ということは、明晰な形で他者に自分の思いや考えを伝達したいという欲求が結びついた行動である。そういう欲求がないのに書くことを促されても、正直困る。そして高校ではそういう生徒が大半である。もちろん自分のためだけの「書くこと」も、既に述べたように詩やエッセイといった形で、十分にあり得る。しかしそれは彼らにとって「書くこと」の可能性のうちには存在しないし、何より「指導」という形態の中で行われることはそもそも望まれないのである——自分の想いを教師に吐露するような生徒は、それこそ珍しい。そうなると、やはり「書くこと」一般の指導は難しくなる。

我々はある意味「書くこと」を生業にしている身だが、多くの生徒にとってはそうではない。そりゃ、本業からすれば「書くこと」は大切だろうが、別にそういうことを求めていない生徒にとっては、強制される一つのカリキュラムにすぎない。

 

ではアカデミック・ライティングが「書くこと」の指導の中枢を占めるのは、そもそもどういう理由によるのだろうか。

所謂「問題提起・自身の主張の表明」から始まり、「具体例」や「実証検証」を踏まえて一つの「結論」を導き出す小論文の構成は、なによりも採点がしやすいという利点を備えている。

教師は誤字脱字をまず閲して、その後構成について評価を行い、最後に内容を踏まえて点数を下す。内容の独自性ももちろん評価の対象だが、なによりもまず「形式」の遵守を得点化する。これによって、「書かれたもの」に点数がつくという事態が成立する。

 

小説や詩が点数化されるということは(比喩やレトリックとしてはあり得るにせよ)基本的にナンセンスである。個人の随筆について、我々はコメントはできるかもしれないが、そこに点数をつけることはできない。「書くこと」が「指導」の対象であり、そこに「評価」が加わる以上、どうしても「採点」可能性が射程に入ってくることになる。「評価」するためには、教師は「書くこと」をアカデミック・ライティングに限定せざるを得ない。

 

自分が高三のとき、同志社出身の知性的な先生が英語のライティングの受験指導で、従属接続詞のbecauseを単文で使用することはNGだということを強調していたのを思い出す。いま手元にあるアカデミック・ライティングの入門書にも、同じことが書いてある。しかし、会話においてはこの点はそこまで重要ではない。当時の自分はその区別がわからなかった。そのせいで、英語の先生は「同志社出身」で「すごい人」だから、そういう細かいことに拘るのかもしれない、ということしか考えられなかった。その意味が、当時はわからなかった。

その先生は、今にして思えばアカデミック・ライティングを下敷きにしてライティングという科目を教えていたのだと思う。それは何も不思議なことではない。我々が異国の言葉でものを書くには、やはりアカデミック・ライティングが確実であるし、誤りも発見しやすい。そこには何の問題もない。しかし、当時の自分には、ただ、わからなかった。だからライティングは「自由」な営みであるというよりは「制約」の塊であったように思う。

 

国語科の教師になって、同じようなことを思う。

生徒に重要な点を教える。主語と述語の関係を対応させること、文末表現や口語表現に気をつけること、構成を守ること。それらは大事なことだ。しかし、知らず知らずのうちに「書くこと」をアカデミック・ライティングに一本化してしまって、生徒たちに最初に多くの「制約」を提示することになっているのではないか。

それは到底「自由」な「書くこと」ではあり得ない。

 

この文章も、特に構成を意識したり、文語表現の適切さを優先させたりしていない。なぜなら、私はいま、書きたいからこの文章を書いているのだ。それが「書くこと」の本質であると思っている。

 

しかしこうした認識は、生徒たちには伝わりづらい。結局生徒たちにとって「書くこと」とは、多くの形式的制約に繊細に気を配りながら、あまり触れてこなかった社会情勢に対して何らかの解答を強制される「業務」にしかならない。それではあまりに、無味乾燥ではないか。

 

問題の所在を以上のように考えることができたとして、さらにこれを深化させることなどできるのだろうか。