古都の道場 西向き間借り

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語学と哲学

カッシーラーの『実体概念の関数概念』を読み終えるまでもう一息というところまで来た。この思想家に対する期待はいま、とても高い。自分の周辺でも、再検討の流れが見えるのは喜ばしい。

 

彼は「関数=機能」Funktion による基礎付けを志向する。Funktion 以上に遡ることもFunktion 以下へ離れていくこともしない。正確に言えば、前者について「関係形式の起源をめぐるあらゆる問い」を「事物の作用ないしは精神の活動様式へと還元することは、どのようなものであれ、あきらかに petitio principii を伴っているだろう」と彼は言うのであり(S. 411/邦訳362頁)、後者については「個々の質的に特殊な感覚は、それと対比され別用に意識される諸内容との区別を通じてはじめて、その性質を得る。それはただ系列項 Reihenglied としてのみ存立し、そのようなものとしてのみ、正しく思惟されうる」のだと述べる(S. 412/邦訳363頁)。項 Glied の意義は彼にとっては系列〈における〉項という点に存するわけだ。故に Substanz を巡る問題は——有り体に言えば——関係に〈於てある〉ということから考えられなければならないのであり、従来の哲学はこの関係を見過ごして来たという(あまりに粗雑ではあるが)まとめ方ができるというわけである。(このまとめ方によって西田とカッシーラーの結合を図ろうとするのは、正直に言って愚かしい。なぜならこれは、両者の特性をそれぞれ傷つけ損ないながら、強引に「言えそうなこと」を言っているだけだからである。だからこのまとめ方は本意ではない。)

 

カッシーラーという哲学者のイメージは、見る人によってかなり異なっているように思う。ハイデガー的な立場から見る人はおそらくダヴォスという角度を経由するだろうし、象徴形式を彼の第一義的な立場と見る人は「象徴」という言葉の〈広義性〉にもっぱら期待を寄せるだろう(つまりそこに於て考えられている細分化する末梢を丁寧に拾い集めることよりは、中枢による司令塔の構造を主題化しようとするだろう)。そして——もっぱら自分の立場はここに近いが——彼をアインシュタインを含む近代物理学および近代数学の哲学的解釈者として見る人は、数理哲学的な側面に興味を持つだろう。容易に想像ができるように、これらはまたカッシーラーにとっては一断面に過ぎないわけで、ある意味彼自身が〈一と多〉を巡る「シンボル」として多くの誤解と偏見に晒されているとも言える。

 

自分はというと、そもそもカッシーラーに興味を持つようになったのは、マールブルク学派の検討という課題の延長線においてであった。おそらくこういう関心でカッシーラーに接近する人間は、あまりいないのではないかという気もする。なぜならマールブルク学派という哲学共同体は、主に「新カント派」(この場合、正確には「新カント学派」)という値札と共に開示されたとき、検討対象というカテゴリーからいくらか退いてしまうからである。まぁ、いようがいまいがそのあたりはどうでもよい。とにかく自分はさしあたって「マールブルク学派のカッシーラー」に興味を持っていたのであり、その意味でまず sachlich かつ geschichtlich というスローガンを貫く姿を、彼のうちに見ていた。

 

ところでそういう観点から言えば、やはり重要なのは「系列概念 Reihenbegriff」で、そこに「系列性」という截然とした概念が導入されているということだ。持続という経験、流れ行く時間は、直接所与の生きた動性の棲家である。この棲家は、一度住んでみるとなるほど極めて居心地がいいもので、ようやく「自分らしさ」のようなものを手に入れたような気分になる——つまり「自由」という問題に結実する。しかし、究極的にはそこは溶けた世界として思考されるより他なく、我々の求める「輪郭線」はどろどろになって、やがては霧消していく。ここに於て再び我々は、「ものを輪郭づける」という行為に自覚的に立ち返る必要性に迫られる。それはマ派的に言えば「系列項」を項として産出するという問題に関わるものなのである。

 

今日は時間があったので、ようやく滞っていた語学の勉強ができた。

不慣れな外国語を「理解する」、そのプロセスは genetisch な観点からして極めて興味深いテーマであるし、また他ならぬ自分自身の問題として実効性を持っている。これを系列概念的に少し考えてみたい。

 

聞きなれない言葉を言葉として輪郭づけるということがなければ、異国の言葉をそれとして認識するようになることはできない。単なる音の流動性に身をまかせるだけでは、「聞き取れない」。ここに、簡単に指摘しておけば、感性的所与に輪郭を与える能動性としての思惟を重んじる根拠があるわけである。音がなければ理解もない、という所与性の問題は、ここでは重要ではない。むしろ〈所与を所与として認識することのできなさ〉——これが極めて深刻なレベルで我々に迫ってくるのは、異国の言葉と対峙するときだと、自分は思う——に直面していること、そこに「単に流れていってしまう事柄」を begreifen する、まさに「印象を凝固する solidifier nos impressions」*1意義がある。

 

自分がフランス語の勉強に関して散々言われたのが、Dicté つまりディクテーションだった。この作業、この修養の哲学的意味は、感性的多様のむき出しの「非意味性」、あるいは「意味不明性」を意味の元へもたらすという目的観が裏に潜む、そうした Glied の形成にあると考えることができる。その形成の問題を、西田は「自覚」、正確に言えば「自覚的限定」に見ていくわけだ。とりわけ「単語」という意味の統一体が実際的な「系列項」なのであり、その意味ではライプニッツの『結合法論』的な問題意識もまた、ここで考えることができるように思う。

 

語学というのは結局「量だ」とも言われるし、また振り切って「才能だ」とも言われる。このなんとも言いようのない曖昧さが、自分にとっては長らく気がかりだった。少なくとも自分は、ラテン語、フランス語、ドイツ語を駆使したライプニッツと、その博学さをほとんど唯一20世紀において引き継いだと言ってよいカッシーラーとを通して、語学力の形成という問題を以上のように考えてみたい。

*1:Bergson, Easai..., PUF, p. 97