古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

断絶する解答——教育のデジタル化の只中で

知人からオンライン授業のことについて質問を受けた。

今回の騒動の中で、ほぼ全国一律に教育機関におけるICTの導入と整備、そしてその全面的な利用とが実現している。もっとも緊急事態宣言の解除された現在では対面形式への移行がなされており、再びその全面的な利用は遠のいているように一教師としては感じるが。

とにかくこの浸透を経て、多くの問題が「デジタル的に」効率化されたはずなのだが、教師の負担は減るどころか明らかに増えている。そういう現状にあって「デジタル化が進んでいるにも関わらず教師は忙しいものなのか」とその知人に問われて、少しムッとしてしまった。

その知人に他意があったわけではないだろうが、ムッとしてしまった一番の理由は、「教育」と「効率化」とがなんの矛盾もなく結合可能なものであるかのように素朴に認識されているような気配を感じ取ってしまったからだろう。

話し出すと長くなる上に、複雑で難しい問題であるから、うまくまとめられるか分からない。しかも、よく考えてみると、これを一つの考え方として押し出したとしても、おそらくその知人には納得されないような気がする。現場と周縁がとりわけ現代においては乖離的であるということをよく耳にするし、自分も当事者である。このような図式下で「現場の声」の側を肉声的に表現することに努めたとしても、多くの場合この表現はある意味でますますこの図式を強固なものにしてしまう。だから、もう少し推し進めて、より広いところからできる限り問題を描いてみたい。

 

なるほど、「自粛要請」を受けている状況下で物理的に不可能だった教育の提供を可能にしたネットワーク・サービスの多くは極めて充実したコンテンツであり、我々のような比較的デジタルに慣れ親しんだ世代の教師たちにとっては、導入当初は多くの可能性を感じさせるものだった。

Google の Forms では集計や出力、マークだけでなく記述にも対応した入力形式などが備わっていて、最初にアクセスしたときには「これはいろんなことができそうだな」と思ったし、Zoom で授業をする際にスライドを画面共有しながら適宜タブレット・ペンで書き込んでいく方法を他の先生がとっているのを見たときは「これはすごい!」と感動したものだ。

 

こうしたデジタル・コンテンツの充実性は、自分も実際感心した通り、使用者の発想次第で多くの可能性に拓かれていると思う。未だに横並びの先生はパワーポイントで現代文の授業をしているし、感覚的にはそれは単純な成績管理や教材を蓄積することの延長線上なのかもしれない。それ自体は決して悪いことではないように思う。

 

しかし、なぜかしこりが残る。

自分も幼い頃からデジタル教材に実際に触れてきたが、そこにはなにか突き抜けられない限界のようなものが常にあった。それは教える側になってからも変わらない。

これをどのように説明すべきだろうか。

試みに、断絶と連続の問題として引き受けて考えてみたい。

デジタルというのは、単純な構成要素を量的にのみ増強することで、変質をほとんど抑えるようなものとして捉えることができる。もちろんこれは素人のイメージだから、専門家にはぜひ詳細な教えを乞いたい。

0と1の二進数を原理として考えてよいならば、それは質的差異を可能な限り削ぎ落としているということである。自然数の連続性が不完全な連続性であるように、そこで強調されるのはむしろ「非連続性」あるいは「断絶」である。0および1はその「異他性 Heterogenität」をもって区別されている(この問題は論文で書いたことがあるので興味のある方は連絡されたい)。

分析哲学的な問題意識と重なると思うが、このような最低限の質的差異から素子を定立してその素子の構成と操作によって形象を形成する方法は、けだし概念を外延的なものとして限定していくということに由来している。0と1が構成素子とされるとき(別にこれは「A」と「B」でもかまわないし、「甲」と「乙」でもかまわない)、0の内包性はただ、1との差異においてのみ考えられている。故に「真」と「偽」を構成素子としても、内包の問題はほとんど変わらない。なぜならこの場合「真」は「偽ではない」ことによって「真」と考えられるのであり、「偽」は「真ではない」ことによって「偽」と考えられるからである(ここでは「真」と「偽」のそれぞれの概念の独立した内包のようなものを考える必要はない、「正しい」ものに連なる「正義性」や「正当性」の観念や、「虚偽性」や「偽造性」の観念は、独立した固有の観念のようにも考えられるが、その意味を形式的に——つまり内容や経験に左右されない仕方で——定義するなら、まったくそれぞれ「真」と「偽」とに一致するだろう。また、当然これらの観念は「善」「悪」や「美」「醜」とは区別されなければならない)。このとき、「真」や「偽」はまったくその外延性を強調された概念として象徴的に存立する。

 

ところで、このような単純な二元性から脱却することは、現代数学にとっては容易いことである。「真と偽」の間を考えることは、「0と1」の間を考えるように遂行される。整数の体系から有理数の体系への移行、それは専門的には「稠密 überalldicht」と呼ばれるように、無数の分割可能性によって引き起こされる。この稠密が高まれば高まるほど、「0と1」の間には無数の区別が設けられつつ、表面的には連続性が成立する。

「表面的には」というのは、この方法で建設される「連続性」が見かけ上のものにすぎないからだ。パラパラ漫画を考えてみればわかりやすいだろう。あるショットそれ自体は閉じられた総体であり、動かない切断面である。しかし、これを運動的に再生すれば、そこに描かれた切断面は「動き」出す。アニメーションが静止画の連続によって構成されるように、そこに「生き生きとした動き」を構成することは、とりわけ現代技術においては難しいことではない。我々はこの「動性」になめらかさを感じれば感じるほど、それを「連続的」であると錯覚する。しかし、根本的にそれらは非連続的な個々の形象によって構成されているのであり、その意味でアトミズムであり、マテリアリズムである。そうした形象から純粋な「途切れ目のない連続性」それ自体を想定することはできない。連続性の概念は「外的」に構成され得ないのである。

 

ゆえに稠密の方向からでは、実数の連続体系が構成できない。稠密によって人間を錯覚させる「連続的な」運動を形成することはできる。しかし、それがビーズのネックレスのように、個々のビーズを構成素子としている限り、真の「連続」にはならない。

 

さて、人間はどうだろうか。もっと言えば、人間の意識、精神活動は、パラパラ漫画やネックレスにおけるビーズのように、「非連続的」な素子に構成された見せかけ上の「連続性」に基づいているのだろうか。

私はそうではないと思う。これを断言できるほど、まだ私の研究は進んでいない。ただ、まったく実証性のない経験的確信として、このことを主張する。

人間の意識の連続性、曖昧性、不明瞭性は、まったく逆の方向から考えられなければならない。

「自分はいったいなにを考えているのか」「自分はいったいいまどんな気持ちなのか」を他人に伝えることが、対「人」的な関係性において重要な契機だとすれば、それは「外」から原子的に構成されるものではない。

「Aですか?」——いいえ。

「それではBですか」——いいえ。

「それではCですか」——いいえ。

という積立(これを無限判断というが)によって「その人」が確定できることは、「その人」の解答としてである。これを他者によって「与えられた課題」として引き受ける限り、そこには必ずしこりが残るし、残らなければならない。教育が扱うのは、そこであると自分は思う。単に外延的な知識を伝達することだけが「教育」なら、「効率化」はデジタル化によってある程度実現するだろう——ちょうどAIが急速に進歩しているように。

しかし人間は疲れる。不安になる。辛い気持ちになる。

そういうところをまずその人自身が直視するところから、他人に与えられる課題における「しこり」が初めて消失した、自己自身を直観することができる。

その直観を拓くことこそ「教育」が担わなければならない問題であると自分は思う。

 

まったくまとまらないまま、お腹がすいてきてしまった。

こんなところで一旦考えるのもやめておく。