古都の道場 西向き間借り

まとまったことをちゃんと書くために。(まとまってないこと:Twitter→@Picassophia)

遠隔で授業する

高校でも大学でもオンライン授業が始まった。

いずれにせよ自分は統括や企画、つまり授業する側のポジションがほとんどで、やる側としての苦難に日々悩まされている。

 

特に厄介なのは高校での授業である。

オンラインにおける教育では、基本的に「一方向的な関係」を払拭することが課題とされている。

つまり、教師が一方的にびゃーびゃー喋って、受講者が能動的に参与できないような授業はやめろというわけである。

 

このことは別にオンラインに限った話ではない。

そもそも教育上の課題として一方的な伝達は批判の対象だった。遠隔で管理の行き届きにくい環境で、殊更に意識する必要があると尻を叩かれているに過ぎない。

 

これは「管理ならざる管理を遂行できているか」という教育上の理想の問題と関わっている。

 

学校は生徒に社会性を身につけさせる現場でもある。

社会性を定義することは難しいが、授業中に勝手なことをして授業を中断させてはならないとか、人が話をしているときに割って入ってはならないとか、そういう規範性を理解していることとしてさしあたり考えておこう。

我々はなんらかの意味でこうした「規範」あるいは「当為(…すべきだ)」の観念を持っている。これらは理性に象徴されるものであり、欲求や欲望を統制する役割を担う。その意味で、規範性とは「管理」である。

 

教育上は一般に「運営」という言葉が使われるが、意味は同じだ。

強いて言えば、「管理ならざる管理」が「運営」の目指すところである。規範性は欲求を抑圧することで自己統制を図る。それが行き過ぎると、「抑圧」された欲求は逃げ場を失ってしまう。次第に欲求は「抑圧」と敵対していく。生徒が「管理(=自分の欲求を抑圧)されている」という感覚を持てば持つほど、生徒は管理から逃れようとするし、ますます管理はそれを包み込もうと拡大していく。法治国家の性質が過度になると、アンダーグラウンドで生活する市民が増えるのは必然である。

だから生徒が「管理されている」と感じるような「管理」は避けなければならない。そのあり方を「運営」と呼ぶわけだ。

 

オンラインの場合、運営は通常時に比べてかなり困難になる。

なにせ、指導対象が「その場」にいないのだ。素行不良な生徒は突発的に回線を切ればその場からドロップアウトすることができる。この状況では外的な規範性というものはほとんど意味をなさない。教師はなおさら、生徒たちの「内的規範性」を信頼せざるを得なくなる。

 

こういう状況で授業をする。日頃の生徒たちの態度にももちろん依るわけだが、だいたい生徒の態度は割合で分裂する。生徒が30人いるとすれば、5人は真面目に聞いていて、15人はなんとなく聞いていて、5人は上の空で、最後の5人は回線を接続して見えないところでゲームをしている。アンダーグラウンド

 

注視を集めるといっても、生徒から見れば画面上の出来事なわけで、教室で行うのとは訳が違う。能動性を担保するのは至難の技だ。

 

こうなると、授業中の相互応答はかなり難しくなってくる。普段は回線が圧迫したり音声が重ならないよう生徒全員をミュートしているから、発言一つさせるのにもテンポが乱される。言い方は頗る悪いが、発言者を決めてミュートを外し「今ミュートを外しました」と伝えるのは、一人ずつかけられた手錠を外しているような気分である。

 

事後的な課題で対応するのも難しい。その場合、生徒の負担がどうしても増えてしまう。管理されている感覚も強くなってしまう。

 

 

色々書いてはみたが、結局うまくはまとまらない。

書いてみれば少しはまとまるかと思ったが、そうでもないらしい。

 

もういっそ開き直って、「一方向でどれだけできるか」に突っ切るのも悪くないのでは、とすら思えてきた。生徒の中身を触発するのが現代文の仕事である。こういう状況だからこそ干渉し過ぎないということを貫きたいのだが、世間はそれを「無責任」と呼ぶだろうか。