五月病の後で
今年度が始まってから今日で丸2ヶ月が経とうとしている。ただただ胸に穴の空いたような気分になるばかりである。
研究の進捗は極めてよろしくない。
この二ヶ月間、外出を控えてひたすらルーティンワークをこなす日々だった。
特に力を入れたのは語学だ。
会話も含め、身体技術的な語学力を習得する過程をいまさらながら実感する。
ポアンカレを読んでいるだけが当然学びではない。田中美知太郎の自分はプラトンを読みたいからギリシア語を学んだとかいう逸話があったと思うが、ああいう特化とは根本的に性質の違うものを、そしてむしろこちらの標準性を、しみじみと感じる。
しかし、それは自分にとって進捗を実感しづらいものだ。少なくとも専門の研究のように、一つ一つを整理して抑えれば良いというものではない。この感覚ばかりはどうにも説明し難い。
その他は専門の周辺のリサーチという意味も込めて、マ派の研究が中心になっていた。
翻訳も進めたし、読解も進めた。リサーチとしてはまだ浅いが、土台形成といったところか。
その分専門に関しては憔悴しきっている。
試論を三ヶ月以上書いているが、その度にリサーチに手間取って中断を繰り返していた。
今はそのリサーチですらおぼつかない。それは、根本的な問題意識に再考を迫られたからでもある。原稿は溜まるばかりで、執筆するのに十分な精神力と下地はまだ整っていない。
義務的な発表は二つ行って、両方とも概ね良好な結果だった。が、それは進捗に換算できるようなものとは言い難い。
その上仕事も件の騒動のせいで大荒れで落ち着かず、どうにもどんよりとしたスタートを切ることになってしまった。やるせない。
ともかくこういう時期は一定周期でやってくる。そろそろ快方に向かう頃でもあると思う。
思考に結びつかない備蓄は不安だ。連綿とした運動にこそ自信は宿る。